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浦島太郎伝説

 広島県神社庁佐伯大竹支部に属する九十六社中およそ四十八社の神紋は、『亀甲紋』「三盛二重亀甲に剣花菱 等々」であり、沿岸部のみに絞り、八幡・恵比寿・稲荷・三島などの定型的な神紋の社を除くと、殆どが『亀甲紋』と考えられます。これは、元々厳島神社の兼務社であったり、応仁の乱から戦国時代にかけて、藤原神主が衰退し、厳島神社の兼帯七社や新たに兼務社になった社の多くが、神紋を替えたためと考えられます。
 玖波の大歳神社(兼務社黒川・松ヶ原の大歳神社)の神紋は『鶴の丸』です。下記の「知りたい宮島 8 大願寺 大聖院他」「戦国日本の津々浦々玖波」により、玖波は、厳島神社の重要な資金源であり、大巌寺や毛利によって徴収され修理造営に使われた事により、現在も社殿が維持できていると言えます。

大願寺

 大巌寺は大聖院とともに特に大事な寺院です。 大巌寺がなかったら、十六世紀中期に厳島神社の社殿の多くが荒廃していたかもしれません。
「大願」という寺名は、厳島神社を護るという「大願」を意味し、ことで普請奉行として寺社の修理造営をしていました。
厳島神社は一宮でしたので、本来は国家護持で、鎌倉時代になっても幕府が庇護しました。しかし、戦国時代になると、もっぱら崇敬者の寄進で社殿が維持されるようになり、大巌寺の住職であった「本願(ほんがん)(本願とは社寺や仏像などを造立する発起人を言う。)が広く募金を呼びかけて浄財を集め、修理を行っている。その為、世界遺産を護ったお寺と言っても過言ではないと思います(知りたい宮島 8 大願寺 大聖院他知りたい宮島8 https://ameblo.jp/kazumauppi/entry-12914680211.html貴方の知らない宮島)。


厳島社の資金源

 天文二十四年(1555)の厳島合戦により、厳島社の在地領主である神領衆の多くが没落。その中にあって玖波は弘治三年(1557)七月、毛利氏によって改めて厳島社大願寺に与えられている。
 大願寺は玖波において、流通課税である「山海浮役」を徴収。厳島社の造営や毛利氏への公用の費用に充てている。玖波が厳島社に残された重要な資金源ともなっていたことが分かる。(戦国日本の津々浦々玖波)


 厳島はよく竜宮城のように言われているのに、浦島太郎の伝説が見受けられません。丹後国だけでなく、各地には、浦島太郎伝説が残っています。(下記 地域伝承)当社の神紋を見るたびに浦島太郎は、老人になって後、鶴になった話が浮かび、伝説を創作するのも面白いのではないかと考え、ウィキペディアから浦島伝説を纏めてみましたので、興味があればご覧頂ければと思います。

ウィキペディアから

 浦島子伝説は既に中国の唐代に流行していた竜生九子伝説の影響を受けていたもので、すなわち奈良時代の浦島子伝説でも、亀姫は竜王の姫だったという説がある。

 古代においては「浦島子」が、亀に身をやつした異郷の姫に出会い、夫婦になる縁といわれ、異郷にいざなわれる展開である。"神女のおしかけ女房的な話"などと形容される。異郷で3年暮らして望郷の念にかられるが、陸の世界に戻ると三百年がたっており、開けるなと禁じられた箱を開けると体が消滅してしまう。と言うものである。

 関敬吾編『日本の昔ばなし』(岩波文庫)に所収される、香川県仲多度郡で採集された話について。

これは「北前の大浦」を舞台とする。漁師の浦島太郎は、いかだ船で釣りに出かけるが亀が何度もかかるばかりで、その都度放してやる。釣果はなしに帰途につくと、渡海舟がやってきて、乙姫のいる海中の竜宮界に連れて行かれる。結末は御伽草子と同様だが、玉手箱が三段重ねで、一段目には鶴の羽があり、二段目で白煙があがって老人となり、三段目に鏡が出て浦島太郎が自分の変わり果てようを目にすると、鶴の羽が触れて鳥の姿になって飛び回る。その浦島をみようと、乙姫が亀に変身して浜にあがってくる。

丹後国風土記逸文

 八世紀に成立した『丹後国風土記』(現在は逸文のみが残存)にある「筒川嶼子」「水江浦嶼子」は、浦島太郎の物語の原型と解されている。

 「與謝郡日置里、この里に筒川村あり」とし、その村の筒川嶼子(つつかわのしまこ)は、容姿と風流が際立ち、別名「水江浦嶼子」といい、日下部首(くさかべのおびと)の先祖だとしている。
 長谷(はつせ)の朝倉宮の御世、つまり雄略天皇の時代。嶼子(島子)が一人船で海に出るが、3日間魚は釣れず、五色の亀が取れる。船で寝入る間に亀は美女の姿に変わっている。いきなり現れた女性の素性を訪ねると、「天上の仙(ひじり)の家」の者だとの返答。島子と語らいたくなってやって来たという。舟を漕いで女性の住む「蓬山」を訪れるが、海上の島であった。門に立つと、七人の童子、ついで八人の童子に「亀比売(かめひめ)の夫がいらした」と出迎えられるが、これらは昴七星と畢星の星団であった。浦島は饗宴を受け、女性と男女の契りを交わす。
 三年がたち、島子に里心がつくと、女性は悲しむが、彼女との再会を望むなら決して開けてはならない玉匣(たまくしげ)(箱)を授けて送りだす。郷里を訪ねると家族の消息は得られず、水江の浦の島子という人が三百年前に失踪したと伝わる、と教えられる。約束を忘れて箱を開けると、何か美しい姿が雲をともない天上に飛び去って行った。そこで島子は女性と再会できなくなったことを悟るのである。
 しかし、何らかの力で二人は歌を詠みかわすことができ、三首が万葉仮名で引用されている。後世より贈られたという二首も引かれているが、これら贈答歌は、『丹後国風土記』より後の時代に追加されたとの説がある。

 伊余部馬養の作という説
『丹後国風土記』逸文は、収録された話は、連(むらじ)の伊豫部馬養(いよべのうまかい)という人物が書いた記録と突き合わせても差異がなかったとしている。すなわち馬養が丹波の国宰だった頃の文章は風土記以前に成立しており、馬養が浦島伝説の最初の筆者であるとの説がある。


日本書紀

一 山幸彦と海幸彦 - 『古事記』と『日本書紀』から、山幸彦が問題を解決するため無目籠に乗り海神の宮に行く話。

故(かれ)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、憂(うれ)へ苦(わづら)ひ甚(いと)深かり、海畔(うみへ)に行(ゆ)き吟(うめ)きたまひき。 
時に塩土老翁(しほつちのをぢ)に逢ひ、老翁(をぢ)問曰(とはさく)「何故(なにゆゑ)に此(ここ)に在り愁(うれ)へ乎(や)。」 対(むか)ひ事の本末(もとすゑ)を以ち、老翁曰はく「復(また)憂(ふれふ)なかれ。吾(あれ)汝がためにこれを計(はか)りたまわむ。」 乃(すなは)ち無目(めなき)籠(こ、かつま)を作り、彦火火出見尊を籠の中に内(い)れ、これを海に沈(しづ)めき。即ち自然(おのづか)ら可怜(うまし)小汀(おはま)有り。 
是(ここ)に、籠を棄(う)て遊(あそ)び行(ゆ)き、忽(たちまち)に海神(わたつみ)の宮(あらか)に至りき。その宮(あらか)や、雉堞(かきうへのをかき)整頓(ととの)ひ、台(うてな)の宇(のき)玲瓏(うるは)し。 門(かど)前(さき)に一(ひとつ)の井(ゐ)有り、井の上に有一湯津(ゆつ)杜樹(かつら)有り、枝葉(えだは)扶疏(しげ)れり。 時に彦火火出見尊、その樹の下に就(つ)き、徒(いたづら)に倚(よ)り彷徨(さまよ)ひたまひき。 


二 浦島太郎(浦嶋子)の記述は、『日本書紀』「雄略紀」の雄略天皇二十二年(478年)秋7月の条に見える。こちらは事件の日付だとして具体的な年・月付で記されるわけで、次のような内容である:

 丹波国餘社郡(現・京都府与謝郡)の住人である浦嶋子は舟に乗って釣りに出たが、捕らえたのは大亀だった。するとこの大亀はたちまち女人に化け、浦嶋子は女人亀に感じるところあってこれを妻としてしまう。そして二人は海中に入って蓬萊山(とこよのくに)へ赴き、遍歴して仙人たち(仙衆(ひじり))に会ってまわった。


 常世の女性が、ワタツミ(海神)の娘だということが付記されるのは、『万葉集』の長歌に詠まれる浦島子伝説においてである。

 

万葉集巻九

 八世紀半ば以降に成立した『万葉集』巻九の高橋虫麻呂作の長歌(9-1740)に「詠水江浦嶋子一首」として、浦島太郎の原型というべき以下の内容が歌われている。「春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而(春の日の 霞める時に 住吉の["すみのえ"の] 岸に出で居て)..」という読み手の現実に始まり、そこから連想される浦島の故事に触れる。大意は次のようなものである。
 水の江の浦島の子が七日も帰らず鯛や鰹を釣りをしていると、海境(うなさか)を超えて漕いでいて行き交った海神(わたつみ)の娘と語り合うようになり、そして結婚する。常世にある海神の宮で暮らすこととなったが、愚かな男は里帰りを言い出す。妻は、この常世の国に戻りたいと願うなら決してこれを開くなと、篋(くしげ)を手渡す。
水江に帰ってみると、家を出てから3年しかたっていないと思っていたのにその家は跡形も無い。箱を開ければ元の家などが戻ると思い開けたところ白い雲がたなびいて常世にむかい、うろたえて叫び、地団太を踏むと、気絶した。浦島の子は皺だらけの白髪の老人の様になり、ついには息絶えてしまった。
 詠み手が長歌で「水江の浦島子の家」の跡が見えると締めくくっている。その舞台の「墨吉」は「すみのえ」と仮名振りされており、従来は丹後地方の網野町に比定されていたが、武田祐吉が摂津国住吉郡墨江村であると提唱した。澤瀉久孝『萬葉集注繹』では、虫麻呂はおそらく摂津の住吉にいたのだろうが、浦島伝説の舞台をここに移し変えて「創作」したのだとしている。
 異郷淹留の場所がワタツミの神の国となり、仙女がその海神の娘になっているのは、この萬葉歌での加筆部分であるが、これもおそらく虫麻呂の創作であろうと考えられている。


 名称は時代によってことなり、異郷は蓬山・常世(→竜宮城)、人物は浦島子(→浦島)、亀比女(→乙姫)、箱は玉匣(→玉手箱)のように変遷する。


御伽草子

 昔丹後の國に浦島といふもの侍りしに、其の子に浦島太郎と申して、年のよはひ二十四五の男ありけり。あけくれ海のうろくづを取りて、父母を養ひけるが、ある日のつれづれに釣をせむとて出でにけり。浦々島々入江々々、至らぬ所もなく釣をし、貝をひろひ、みるめを刈りなどしける所に、ゑじまが磯といふ所にて、龜を一つ釣り上げける。浦島太郎此の龜にいふやう、「汝生あるものの中にも、鶴は千年龜は萬年とて、いのち久しきものなり、忽ちこゝにて命をたたむ事、いたはしければ助くるなり、常には〔常にの語氣を強めた用法〕此の恩を思ひいだすべし。」とて、此の龜をもとの海にかへしける。
かくて浦島太郎、其の日は暮れて歸りぬ。又つぐの日、浦のかたへ出でて釣をせむと思ひ見ければ、はるかの海上に小船一艘浮べり。怪しみやすらひ見れば〔留まり見れば〕、うつくしき女房只ひとり波にゆられて、次第に太郎が立ちたる所へ著きにけり。浦島太郎が申しけるは、「御身いかなる人にてましませば、斯かる恐ろしき海上に、只一人乘りて御入り候やらむ。」と申しければ、女房いひけるは、「さればさるかたへ便船申して候へば、をりふし浪風荒くして、人あまた海の中へはね入れられしを、心ある人ありて自らをば、此のはし舟〔はしけ舟、小舟〕に載せて放されけり、悲しく思ひ鬼の島へや行かむと、行きかた知らぬをりふし、只今人に逢ひ參らせ候、此の世ならぬ〔前世の〕御縁にてこそ候へ、されば虎狼も人をえんとこそし候へ。」とて、さめざめと泣きにけり。浦島太郎もさすが岩木にあらざれば、あはれと思ひ綱をとりて引きよせにけり。

 さて女房申しけるは、「あはれわれらを本國へ送らせ給ひてたび候へかし、これにて棄てられまゐらせば、わらはは何處へ何となり候べき、すて給ひ候はば、海上にての物思ひも同じ事にてこそ候はめ。」とかきくどきさめざめと泣きければ、浦島太郎も哀れと思ひ、おなじ船に乘り、沖の方へ漕ぎ出す。かの女房のをしへに從ひて、はるか十日あまりの船路を送り、故里へぞ著きにける。さて船よりあがり、いかなる所やらむと思へば、白銀の築地をつきて、黄金の甍をならべ、門をたて、いかなる天上の住居も、これにはいかで勝るべき、此の女房のすみ所詞にも及ばれず、中々申すもおろかなり。さて女房の申しけるは、「一樹の陰に宿り、一河の流れを汲むことも、皆これ他生の縁〔前の世からの因縁〕ぞかし、ましてやはるかの波路を、遙々とおくらせ給ふ事、偏に他生の縁なれば、何かは苦しかるべき、わらはと夫婦の契りをもなしたまひて、おなじ所に明し暮し候はむや。」と、こまごまと語りける。浦島太郎申しけるは、「兎も角も仰せに從ふべし。」とぞ申しける。さて偕老同穴のかたらひもあさからず、天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝とならむと、互に鴛鴦のちぎり淺からずして、明し暮させ給ふ。さて女房申しけるは、「これは龍宮城と申すところなり、此所に四方に四季の草木をあらはせり。入らせ給へ、見せ申さむ。」とて、引具して出でにけり。まづ東の戸をあけて見ければ、春のけしきと覺えて、梅や櫻の咲き亂れ、柳の絲も春風に、なびく霞の中よりも、黄鳥の音も軒近く、いづれの木末も花なれや。南面をみてあれば、夏の景色とうちみえて、春を隔つる垣穗には、卯の花やまづ咲きぬらむ、池のはちすは露かけて、汀みぎは涼しき漣さゞなみに、水鳥あまた遊びけり。木々の梢も茂りつゝ、空に鳴きぬる蝉の聲、夕立過ぐる雲間より、聲たて通るほとゝぎす、鳴きて夏とは知らせけり。西は秋とうちみえて、四方の梢紅葉して、ませ〔ませ垣、低い垣〕のうちなる白菊や、霧たちこもる野べのすゑ、まさきが露をわけわけて、聲ものすごき鹿のねに、秋とのみこそ知られけれ。さて又北をながむれば、冬の景色とうちみえて、四方の木末も冬がれて、枯葉における初霜や、山々や只白妙の雪にむもるゝ谷の戸に、心細くも炭竃の、煙にしるき賤がわざ、冬としらする景色かな。かくて面白き事どもに心を慰め、榮華に誇り、あかしくらし、年月をふるほどに、三年になるは程もなし。浦島太郎申しけるは、「我に三十日のいとまをたび候へかし、故里の父母をみすて、かりそめに出でて、三年を送り候へば、父母の御事を心もとなく候へば、あひ奉りて心安く參り候はむ。」と申しければ、女房仰せけるは、「三とせが程は鴛鴦の衾のしたに比翼の契りをなし、片時みえさせ給はぬさへ、兎やあらむ角やあらむと心をつくし申せしに〔心遣ひをしましたのに〕、今別れなば又いつの世にか逢ひまゐらせ候はむや、二世の縁と申せば、たとひ此の世にてこそ夢幻ゆめまぼろしの契りにて候とも、必ず來世にては一つはちすの縁と生まれさせおはしませ。」とて、さめざめと泣き給ひけり。又女房申しけるは、「今は何をか包みさふらふべき、みづからはこの龍宮城の龜にて候が、ゑじまが磯にて御身に命を助けられまゐらせて候、其の御恩報じ申さむとて、かく夫婦とはなり參らせて候。又これはみづからがかたみに御覽じ候へ。」とて、ひだりの脇よりいつくしき筥を一つ取りいだし、「相構へて〔決して〕この筥を明けさせ給ふな。」とて渡しけり。

 會者定離のならひとて、逢ふ者は必ず別るゝとは知りながら、とゞめ難くてかくなむ、
 日かずへてかさねし夜半の旅衣たち別れつゝ〔立つと衣を裁つとかけた。〕いつかきて見む〔來てと著てとをかけた。〕

 

浦島返歌、

 別れゆくうはの空なる〔うはの空であるから空虚の意で、からと唐をかけた。〕から衣ちぎり深くば又もきてみむ

 

 さて浦島太郎は互に名殘惜しみつゝ、かくてあるべき事ならねば、かたみの筥を取りもちて、故郷へこそかへりけれ。忘れもやらぬこしかた行末の事ども思ひつゞけて、はるかの波路をかへるとて、浦島太郎かくなむ、かりそめに契りし人のおもかげを忘れもやらぬ身をいかゞせむ
 さて浦島は故郷へ歸りみてあれば、人跡絶えはてて、虎ふす野邊となりにける。浦島これを見て、こはいかなる事やらむと思ひける。かたはらを見れば、柴の庵のありけるにたち、「物いはむ〔一寸お伺ひしますの意〕。」と言ひければ、内より八十許りの翁いであひ、「誰にてわたり候ぞ。」と申せば、浦島申しけるは、「此所に浦島のゆくへ〔浦島のゆかり〕は候はぬか。」と言ひければ、翁申すやう、「いかなる人にて候へば、浦島の行方をば御尋ね候やらむ、不思議にこそ候へ、その浦島とやらむは、はや七百年以前の事と申し傳へ候。」と申しければ、太郎大きに驚き、「こはいかなる事ぞ。」とて、そのいはれをありのまゝに語りければ、翁も不思議の思ひをなし、涙を流し申しけるは、「あれに見えて候ふるき塚、ふるき塔こそ、その人の廟所と申し傳へてさふらへ。」とて、指をさして教へける。

 太郎は泣く泣く、草ふかく露しげき野邊をわけ、ふるき塚にまゐり、涙をながし、かくなむ、かりそめに出でにし跡を來てみれば虎ふす野邊となるぞかなしき
 さて浦島太郎は一本の松の木陰にたちより、呆れはててぞゐたりける。太郎思ふやう、龜が與へしかたみの筥、あひ構へてあけさせ給ふなと言ひけれども、今は何かせむ、あけて見ばやと思ひ、見るこそ悔しかりけれ。此の筥をあけて見れば、中より紫の雲三筋のぼりけり。これをみれば二十四五のよはひも忽ち變りはてにける。
 さて浦島は鶴になりて、虚空に飛びのぼりける折、此の浦島が年を龜が計らひとして、筥の中にたゝみ入れにけり、さてこそ七百年の齡を保ちけれ。明けて見るなとありしを明けにけるこそ由なけれ。

 君にあふ夜は浦島が玉手筥あけて〔筥を明けてと夜が明けてとをかけた。〕悔しきわが涙かな

と歌にもよまれてこそ候へ。生あるもの、いづれも情を知らぬといふことなし。いはんや人間の身として、恩をみて恩を知らぬは、木石にたとへたり。情ふかき夫婦は二世の契りと申すが、寔にあり難き事どもかな。浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす〔仲間となつて居る。仙人の仲間であらう〕。龜は甲に三せきのいわゐをそなへ〔甲に三正(天地人)の祝ひを備へか〕、萬代を經しとなり。扠こそめでたきためしにも鶴龜をこそ申し候へ。只人には情あれ、情のある人は行末めでたき由申し傳へたり。其の後浦島太郎は丹後の國に浦島の明神と顯はれ、衆生濟度し給へり。龜も同じ所に神とあらはれ、夫婦の明神となり給ふ。めでたかりけるためしなり。

 

地域伝承

長崎県壱岐に伝わる話

長崎県壱岐郡にあった郷ノ浦町(ごうのうらちょう)の華光寺にある古い書には、渡良半島の嫦娥島(じょうがじま)を竜宮城と記してある。

神奈川県横浜市神奈川区に伝わる話

慶運寺「龍宮傳来浦島観世音浦島寺」石碑。観福寺に旧蔵。
観福寿寺 - 江戸名所図会(国立国会図書館)
神奈川県にある通称「浦島寺」と結びつく伝説は次のようなものである。

 昔、相模国三浦に浦島太夫とよばれる人がおり、彼は仕事のため丹後国に赴任していた。その息子である太郎は、亀が浜辺で子供達にいじめられているところに出会う。(全国版と同じなので中略)竜宮の乙姫から授かった玉手箱と観音像を持って太郎が丹後に帰ると、そこに両親のゆかりの跡はなく、太郎は両親の墓は武蔵国白幡(現・横浜市神奈川区の東部)にあると聞かされる。
老人となった太郎は、白幡の峰そばの子安の浜(浦島丘)に行き、両親の墓を探したが、なかなか見つけられない。それを見かねた乙姫は、松枝に明かりを照らして場所を示した。やっとのことで墓を見つけた太郎はその地に庵を結び、観音像を安置した。太郎の死後、その庵は観福寺(浦島院観福寿寺)となった。
 観福寺は、江戸末期の神奈川宿火災で焼失して廃寺となるが、明治五年(1872年)に石井直方(神奈川本陣)が、神奈川区の慶運寺に一宇を増築させて併合させた。聖観世音菩薩像は残り、こちらに安置されている。この聖観世音菩薩像と、慶運寺および同区内の蓮法寺が所有する塔・碑は、「浦島太郎伝説関係資料」として横浜市登録の地域有形民俗文化財となっている。

長野県木曽の浦島伝説

歌川国芳画、「福島宿」
→詳細は「寝覚の床」を参照
長野県木曽の山中に、浦島太郎がここに住んでいたという伝説が、室町後期から江戸時代の頃に成立している。

 創作であるが、古浄瑠璃『浦嶋太郎』では、舞台を上松の宿場の界隈として、浦島太郎の民話を作り変えている。すなわち信濃国に住む子宝に恵まれない夫婦が戸隠明神に祈願して授かったのが主人公の浦嶋太郎とする。その相手も、もとは「うんのの将監」の娘の「玉より姫」で、浦嶋と恋仲になるが現世では添い遂げられず、伊奈川(木曽川の支流)に身投げするが、超自然的な女性に生まれ変わる。彼女は亀に案内され、竜宮界の館のきんなら王に仕える「とうなんくわ女」となるのである。拝領した「うろこの衣」は、これを脱げば亀の姿から人間に戻るという霊物だった。姫は亀の姿となって伊奈川にいるところを浦嶋太郎に釣られ、再会を果たす。浦島は姫の船に乗り、竜宮へ案内される。

香川県三豊市詫間町の浦島伝説

由来の地名など

香川県三豊市詫間町の丸山島。干潮時には地続きになる。浦島神社、竜王宮という祠がある

 香川県三豊市詫間町にある浦島太郎親子の墓 中央が太郎の墓
 香川県三豊市詫間町の西部、荘内半島はかつて「浦島」と呼ばれており、数々の浦島太郎にまつわる伝説が残されている。足利義満が浦島の三崎神社に参拝した際に"へだてゆく 八重の汐路の浦島や 箱の三崎の 名こそしるけれ"と詠んでいる。浦島太郎伝説に所縁があるとされる地名等は以下のものがある。
 生里(なまり) - 與作という人がおしもさんという美しい娘を嫁にもらって住んでいた所。二人の間に生まれた男の子が浦島太郎である。太郎の生まれた里で「生里」という。
浦島(うらしま) - 昔荘内組七浦と呼ばれていた大浜浦、積浦、生里浦、箱浦、香田浦、家の浦、粟島の七つの地区を総称して「浦島」という。
鴨之越(かものこし)- 太郎がいじめられている亀を助けた浜辺。
丸山島(まるやまじま)- 鴨之越の海岸にある島で、干潮時には歩いて渡ることができる。この海岸で太郎が亀を助けたとされており、丸山島に浦島神社が祀られている。
箱(はこ) - 太郎が玉手箱を開けた場所。太郎親子の墓もある。
積(つむ) - 宝物を積んだ太郎が竜宮城から乙姫に送られて帰り着いたとされる場所。
糸ノ越(いとのこし) - 太郎が箱から釣糸をもって室浜へ通った所で、太郎の休んだ腰掛石もある。
室浜(むろはま) - 太郎が竜宮から帰ってからの2、3年釣りをしていた所と言われている。不老の浜(ぶろま)とも呼ばれている。
紫雲出山(しうでやま)- 太郎が開けた玉手箱から出た白煙が紫の雲となって、この山にたなびいたとされる。
仁老浜(にろはま)- 太郎の母の生家「しもの家」がある地区。玉手箱を開けて白髪の老人となった太郎が、母の里で余生を送ったとされ、「仁義深い老人の浜」が仁老浜の語源とされる。
金輪の鼻(かなわのはな)- 竜宮城で歓待を受けた後、積まで乙姫様に送ってもらった。積の海岸で別れを惜しみ、浦島太郎と堅い握手を交わした際に乙姫様が金の腕輪を落としたことから金輪の鼻と呼ばれている。
姫路(ひめじ)- 粟島の地名。乙姫が太郎を里へ送り届けた後、潮流の関係で一時立ち寄ったのが元で「姫路」と呼んでいる。
亀戎社(かめえびすしゃ)- 粟島。太郎を乗せた亀の死骸を葬った場所に建てられた社とされる。
上天(じょうてん) - 紫雲出山の中腹にあり、太郎が昇天した場所と言われている。山頂の竜王社では旧3月15日に例祭があり、積の人たちによってお弁当の接待がされていた。
伝説がまとめられた経緯
詫間町荘内半島における浦島太郎伝説は諸大龍王の墓碑建立1847年(弘化4年)より前からあったとされる。荘内半島各地の地名が浦島伝説に由来するのではないかと詫間町出身の彫刻家新田藤太郎が提案し、郷土史家の三倉重太郎が半島各地の地名と伝説の関連性を調査し、物語として昭和23年にまとめた。

他にも、伝承は各地に存在している。

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