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気候変動などに伴う、古代日本人の状況について

 10万年前の日本列島に人類の痕跡(金取遺跡で石器が出土)が見つかっていますが、3万8千年ほど前に日本列島にハプログループD1が渡来し3万年前にD1a2が誕生したと考えられ、現在の日本人の3割から4割がこのハプログループに属しています。D1a2aはほぼ日本人に特有なハプログループです。
 20000年前には、浜北人(静岡県浜北市)、港川人(沖縄県)が出現しています。
15000年前頃から日本人は石器を新石器と進化させ、石を磨いた磨製石器を使用し、植物食が活発化し、土器・石鏃(石を材料にして作られた道具や武器)の使用が始まります。この頃から縄文時代・草創期になります。
 7万年前から18500年前のヴュルム氷期:Wurmglaciationが終わり、12000年前(アレレード(Allered)期)になると、夏の太陽からの放射量は7%増加し気候は温暖化の方に向かいました。アメリカやヨーロッパなどの氷床は溶け、植生は北へ、北へと移動していきました。二酸化炭素も増加し、特徴的な温暖な時代が13000~11000年前に現れました。
 ヤンガードライアス(Younger-Dryas)期という寒冷期は11000~10720年前のわずか280年間の間再び氷床が著しく発達するなど、氷期の状態に逆戻りします。その原因として、地球の動き、火山噴火、温室効果ガス濃度の変化、海流の変化などいろいろ言われてきましたが、現在のところ、海流のパターン変化がひき起こしたという説と彗星のような天体が地球に衝突したことによるダスト・煙りによる日射の遮蔽の2つの説に絞られてくるようになっています。末期には50年間の間に7℃の温暖化が生じ、この寒冷期が終わります。
 日本においても、氷床が溶けることにより、1万年ほど前に海面が上昇(縄文海進)し、日本列島はユーラシア大陸から分離します。この頃から、定住化が進み、貝塚が作られるようになり、漆の使用も始まります。大陸から犬も持ち込まれます。

 9000年前には、大阪平野や名古屋近辺が、暖かさの指数から見るとすでに照葉樹林が生えても良い条件となっているにもかかわらず、実際の植生は紀伊半島のあたりを北上中であったことが花粉分析から明らかになっています。ここからも、気候の急激な温暖化に植生の反応(移動)が全くついていっていないことがわかります。花粉分析では、たとえば紀伊半島南部から大阪まで、この後、照葉樹林群落が拡大するのに3000年かかったという結果が得られています。
 8千年前の日本においては、対馬海流が日本海へ流入し、気候が暖かく安定し、海面が現在よりも2~3メートル高くなり、稲作(陸稲)が中国(南部)から伝わります。(稲作に関しては、鹿児島県の遺跡で、紀元前10000年頃の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっていると報告されています。)この頃から縄文早期に入ります。①人口は2万2千人程度です。7000~5000年前、年平均気温が現在より2℃程度高かったと推定されています。しかし植生の拡大・北上はこの温暖化になかなか追い付けませんでした。6500年前には、照葉樹が大阪まで広がり、ブナなどの冷温帯林の寒冷側の生育限界における現在の気候条件は、北海道における北限(いわゆる黒松内線)付近と、本州における高度限界付近でかなり異なります。前者の方は後者に比べて温暖な傾向があります。このことは、現在においてもなおブナ林が北海道で分布を北の方に拡大している最中であることを示しています。
 6000年前のヒプシサーマル期(気候最適期)には、全地球的に夏の気温が現在より2~4℃高い期間が始まりました。この頃、夏の太陽からの放射量は現在より4%多く、冬は逆に4%少なくなりました。黒点数から見た太陽活動も、この時期、非常に活発になります。日本においても、最温暖期になり海進が最盛期となる事で、貝塚が増加し、漁労が発達します。紀元前約4000年の岡山の朝寝鼻貝塚でプラント・オパールが見つかっています。この頃から縄文前期に入ります。人口は10万6千人ぐらいに増加します。

 ここで韓半島の大まかな状況を、重ねておきたいと思います。②紀元前1万年前の旧石器遺跡は50カ所程度発見され、人は住んでいたようですが、日本で発見された1万カ所以上と比べるとごく僅かであることが分かります。紀元前1万年から前5千年までの五千年間韓半島では、ほとんど遺跡は発見されていません。このことは、人が住んでいなかったことを意味します。沖縄の港川人についても発見後1万数千年の間、人骨や遺跡は消え人がいなかったと考えられます。その後、縄文前期の伊礼原遺跡が発見され、九州産の黒曜石・土器・糸魚川の翡翠などが発見され、沖縄の祖先は本土から移り住んだ人々であり、交流も行われていたことを示しています。紀元前3千年の縄文中期には日本では青森県青森市にある1500年続いた日本最大の集落が出来る(三内丸山遺跡)など、縄文時代の最盛期を迎えます。ヒプシサーマル期の後、太陽活動が一気に衰弱します(シュメール第一、第二極小期:SumerianIandIIminima)。そしてネオグラシエーション(Neoglaciation)が起こりますが、日本においては、大阪の上町台地以外の部分や、名古屋城より海側から岐阜県にいたる広い地域はこの時まで海でしたが、気候は冷涼・湿潤化し、降水量も増加します。降水量の増加のため自然の埋め立てが進みます。沖積平野はこの時期にできたといわれています。韓半島においては、櫛目文土器の時代に入りますが、櫛目文土器は縄文前期の曽畑式土器そのものであり、東山道貝塚では縄文土器や西北九州の釣針・黒曜石が発見されています。このことは、韓半島各地へ移り住んだ縄文人が日本との間を行き来していたことを意味します。因みに、縄文中期の人口はおよそ263000人ぐらいです。
 紀元前2000年頃から縄文後期に入ります。この頃以降には冷涼化することが多くなります。寒冷化のために人口は161000人程度に減少します。紀元前約1500年前の南溝手遺跡で籾の痕がついた土器が見つかっています。水田稲作に関しては約2600年前とされていましたが近年の炭素14年代測定法により紀元前約1000年頃(前10世紀後半頃)の菜畑遺跡、雀居遺跡で水田稲作が開始されたことになっています。この頃、ハプログループO1b2(現在日本人の約3割を占めます。Oグループのサブグレードの1つ。日本人及び朝鮮民族に30%程度見られ、満州族では15%前後見られます。アイヌには見られないことから、弥生時代以降の水稲農耕民、弥生人の遺伝子で、O-M176の子孫グループに属す集団)が中国江南から日本列島へ水稲栽培をもたらしたとしています。因みにO1b2a1a1は日本人特有です。D1a2aは南から流入してきたO1b2a1a1に北方に押されながらと融合していきます。この頃縄文晩期から弥生時代に移っていきます。弥生時代の人口はおよそ602000人ぐらいです。

 ハプログループO1は、人類の移動次期に崑崙山脈の北ルートを取ったハプロNO系がN系とO系に別れたO系の子孫です。N系東に向い、O系は南下して少しでも暖かい平原を目指し、多くのO1系はヴュルム氷期に海面が100メートル程度低くなり広大な平野であったタイランド湾から南シナ海へかけて存在したスンダランド(現在のマレー半島東岸からインドシナ半島に接する大陸棚)とサフールランド(オーストラリアとニューギニアの間の平野)で生活し、紀元前12000年頃から紀元前4000年にかけて約8000年間にわたる海面上昇により海底に没したことにより、O1b2系は温暖化に伴い北上して中国南部を中心に中国全土に広がっていき、O1b1系はニューギニアを中心に広がって行きます。海面上昇により日本は他者が進入しづらい場所になったため、紀元前約1000年頃、日本に移動してくるまでに年数を要したのでしょう。{縄文海進は、最終氷期の最寒冷期後(約19、000年前)から始まった海水面の上昇を指し、日本など氷床から遠く離れた地域で100メートル以上の上昇となり(年速1-2センチメートル)、ピーク時である約6、500年前-約6、000年まで上昇が続きました。現在はピーク時から海水面は約5メートル低下しています。またピーク時の気候は現在より温暖・湿潤で平均気温が1-2℃高かったようです。}
 紀元前750年前後のホーマー極小期・紀元前330年前後のギリシャ極小期では寒冷期になり、日本の水稲作地域の拡大は沈滞してしまいます。ただ、この二つの極小期の中間の温暖な時代(紀元前500~400年)には、水稲作地域が加賀(石川県)から弘前(青森県)まで日本海沿いに一気に拡大したと推測されています。
 鉄器の使用に関しては、中国においては、殷代の遺跡において既に鉄器が発見されているものの、それほど利用されていたわけではなく、主に使用されていたのはあくまでも青銅器であったようです。本格的に製鉄が開始されたのは春秋時代中期にあたる紀元前600年ごろであり、戦国時代には広く普及します。鉄器の普及は農具などの日用品から広がり、武器は戦国時代まで耐久性のある青銅器が使われ続けます。例として、秦は高度に精錬された青銅剣を使っています。一方の東アジア北部では中国よりも早くに鉄器が伝わり、沿海州では紀元前1000年頃に鉄器時代を迎えています。
 日本においては、水田稲作が開始されて後の約600年後、青銅器と鉄器がほぼ同時に流入しており、『魏志』などによればその材料や器具はもっぱら輸入に頼っており、中国東北系の鋳造鉄器が紀元前3世紀に北部九州に持ち込まれたことで日本に於ける鉄器使用が始まります。前3世紀以降には朝鮮系の鎌などの小鉄器鍛造品も出現します。前2世紀以降には北部九州で鉄斧や鉄製鍬先や鋤先など農工具の鉄器化が進んだことにより耕地の開発が進みます。3世紀までに鉄器が普及していたのは北部九州地域に限られており、日本のその他の地域から出土する鉄器は僅かです。
 その後も、1~2世紀頃には寒冷期を迎え、300年頃に温暖な状態に一旦落ち着き、400年頃には冷涼化のトレンドに戻り、5世紀中はそれが続きました。600~750年には再び著しく気候が寒冷化しました「古代後期小氷期(LateAntiqueLittleIceAge)」。
 また鉄器についてですが、日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのはたたら製鉄の原型となる製鉄技術が朝鮮半島から伝来し、確立した6世紀の古墳時代に入ってからである。製鉄遺跡は中国地方を中心に北九州から近畿地方にかけて存在します。7世紀以降は関東地方から東北地方にまで普及します。日本においては鉄器と青銅器がほぼ同時に伝来したため、耐久性や鋭利さに劣る青銅器は祭器としての利用が主となり、鉄器はもっぱら農具や武器といった実用の道具に使用されることとなっています。
 韓半島においては、靺鞨等の沿海州・北方の異民族が流入し、縄文人は南下したり、異文化交流・人種的混合が始まります。このような状況が紀元前300年頃まで続きます。秦が燕を滅ぼした後、漢は燕を復活させますが、紀元前195年、燕は漢の攻撃を受け、燕王は北方強度に、燕の武将衛満は箕準王の元へ亡命し、衛満は箕準王を追放し「衛氏朝鮮」を建国、しかし、紀元前108年漢によって滅ぼされます。箕準王から衛氏朝鮮の滅亡までを古朝鮮の時代と呼ばれています。前漢の武帝が紀元前108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、紀元前107年に設置した玄菟郡の郡の漢四郡(朝鮮四郡)を置きましたが、漢四郡のうち、真番郡と臨屯郡は早く廃され、玄菟郡は朝鮮半島から西に移りましたが、204年には朝鮮半島に新たに帯方郡が置かれます。楽浪郡と帯方郡は313年まで存続します。紀元前107年に設置され、高句麗の攻撃により遼東に撤退した313年までの400年間、平壌の存在した楽浪郡を通じて中国王朝の政治的・文化的影響を朝鮮に与え、また朝鮮も主体的にそれを求め、中国文明が朝鮮にもたらされ、高句麗の発展は、玄菟郡への服属抵抗が大きな意義を持ちます。楽浪郡・帯方郡の漢人が高句麗王権・百済王権に取り込まれ、高句麗・百済の発展に寄与します。楽浪郡と帯方郡の故地には、5世紀まで土着の漢人や新移住者の漢人が住み続けています。
 三国史記(新羅本紀)では、『紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。』『紀元前20年 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。馬韓王が瓠公に「辰・卞二韓は、わが属国であったのが、近年には貢物も送らない。大国につかえる礼が、これでいいのか」といった。これに対して瓠公は「わが国は二聖が国をたててから人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので辰韓の遺民から卞韓、楽浪、倭人にいたるまで恐れ、かつ、したわないものはありません。しかし、わが王は謙虚で、下臣を遣わして国交を結び交わそうとするは、過ぎたる礼というべきであります。それなのに、大王はかえって怒り、兵を似ておどかすのは、これ何の意味でありますか」といった。馬韓王はますます怒って瓠公を殺そうとしたが、左右の臣たちが諫めてやめさせ、許して帰した。これより先、中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。この時にかれらの数が多く、栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌って責めたものである。瓠公という人は、その族姓がつまびらかではないが、元は倭人で、はじめ瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。』と有り、また、三国史記(雑志)では、宋祁の『新書』には『東南は日本であり、西は百済、北は高句麗で、南の濱は海である』と言っており、韓半島の東南には縄文人が倭人として住み続けていたことが分かります。新羅とは幾度となく戦い・講和をしています。
 また、好太王碑文(414年(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉、9月29日 (旧暦)建立)には、『391年(辛卯(耒卯)年)「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」』と有り、そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していました。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまいました。399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌にでむきます。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにしました。400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援しました。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫りましたが、安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領し、404年、倭が帯方地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させました。この頃から、倭人は韓半島における勢力を失い始めます。倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていたことが『日本書紀』の記録から知られています。大陸側でも、広開土王碑400年条の「任那」の記述が初出であり、『宋書』では「弁辰」が消えて438年条に「任那」が見られ、451年条には「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲されて『南斉書』も併記を踏襲していることから、倭国が任那、加羅として韓半島に住み続けていたことを示しています。任那、加羅は、倭国から百済への割譲や新羅の侵略によって蚕食され、562年以前に新羅に滅ぼされました。475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落します。その後、熊津への遷都によって復興し、538年には泗びへ遷都します。当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送られています。一方、581年に建国された隋は、中国大陸を統一し文帝・煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征を行ったもののいずれも失敗します。その後隋は国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅び、新たに建国された唐は、628年に国内を統一します。唐は二代太宗・高宗の時に高句麗へ3度(644年、661年、667年)に渡って侵攻を重ね(唐の高句麗出兵)征服することになります。 新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、百済を滅ぼし、百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請します。中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めます。661年、斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死した(暗殺説あり[要追加記述])。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸します。 唐・新羅連合軍の総兵力は不明ですが、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力と相当するものだったと考えられます。 倭国軍の第一派は1万余人。船舶170余隻。第二派:2万7千人。第三派:1万余人。と考えられます。遅れたこと・兵力差によって倭国は退廃します。これがいわゆる白村江の戦いです。
 戦後交渉および唐との友好関係の樹立のために、天智天皇は唐との関係の正常化を図り、669年に河内鯨らを正式な遣唐使として派遣します。百済の影響下にあった耽羅も戦後、唐に使節を送っており、倭国・百済側として何らかの関与をしたものと推定されます。670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為に唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられています。天武期・持統期に一時的な中断を見たものの、遣唐使は長らく継続され、唐からの使者も訪れ、その後の日本の外交は唐との友好関係を基調としています。
 この頃の大まかな気候変化は、1~2世紀頃に寒冷期を迎え、西暦300年頃になると温暖な状態に一旦落ち着きます。400年頃には冷涼化のトレンドに戻り、5世紀中それが続きます。更に600~750年には再び著しく気候が寒冷化します。これを『古代後期小氷期(Late Antique Little Ice Age)』呼んでいます。 因みに、奈良時代の人口はおよそ5400000人ぐらいです。
 西暦800~1300年は、現在並み、あるいはそれをやや上回る温暖な時期でした。この現象は全地球的に見られたとされています。この時期、ヨーロッパではノルマン人が大西洋を渡ってグリーンランドに入植しました。また、この頃の大西洋には流氷がほとんど見られなかったと言われています。当時のアイスランドではエンバクなどの麦類が栽培可能でした。この温暖期を中世温暖期(Middle Ages warm epoch)と呼びます。このときの太陽活動は、西暦1100~1300年には現在並みに活発だったとされています。
 日本においても、西暦1200年を中心に、気温の高かった時代があったことが定性的にわかります。平安時代は相対的に、のんびりとした時代であり、当時の貴族の館は『寝殿造り』と呼ばれる、風通しのよさそうな、というよりは寒そうな様式をしています。こんな中世温暖期だったから、貴族も寒さに耐えられたのかもしれません。
 太陽の黒点が少ないことは太陽活動が不活発なことを意味しています。西暦1300年以降、この太陽の黒点が急に少なくなり太陽活動が不活発な時期が繰り返してやってくるようになりました。その時期は1320年頃、1460~1550年,1660~1715年、そして1800年前後です。1320年頃の極少期をウォルフ極小期、1460~1550年のそれをスペーラー極小期、そしてとくに西暦1660~1715年のおよそ70年間の太陽黒点がほとんど無くなった顕著な黒点極少期間をマウンダー極小期(Maunder minimum)、また一番最近の1800年前後の短い極少期をドルトン極少期と、それぞれ呼び、この期間を、小氷期(Little Ice Age)と呼びます。この時期には各地で氷河の前進が起きました。日本でも西暦1300年を過ぎると気候悪化が起こり、降水量が増えて、濃尾平野などでは河道変化が繰り返されるようになり、特にマウンダー極少期とその次のドルトン極少期にあたる1600~1850年の寒さの程度はものすごく、小氷期をこの時期に限定する場合もあります。この時期、日本では大雪、冷夏が相次ぎ、淀川が大阪近辺で完全に氷結したこともあります。大阪の河内地方ではそれまで盛んであった綿作が、気候寒冷化・降水量増加にためにイネ・ナタネに転作を余儀なくされたとも言われています。

 

参照・引用
①「ムー大陸から来た日本人」竹内均小山修三による平均人口
②「日本の誕生」長浜浩明

災いについてふと思う 

 災いについて、まず、自然のもたらす現象として、「かしこきものへのつつしみやもてなし」が非礼・不敬なく喜んで貰えたときに豊かな恵を受ける事が出来ることに対して、心ならずも(感覚が麻痺し非礼・不敬をそれと感じない場合も含める)怒りや悲しみを与えた場合に降り掛かる災いと、人が触れてはならないものに触れた場合(良い事だと思えても端から見るとそう思えるものも含む)に起こる災いが有ると思います。
 前者には、『備後の国風土記』の裕福な巨旦将来が武塔の神に宿も貸さず、もてなしもしなかったが、貧しい蘇民将来は、快く泊め、親切にもてなし、その後再び訪れた武塔の神は、八柱の神を連れてきて、蘇民将来に『茅の草を輪にしてお前の娘の腰に付けさせよ。』と申し、その夜、その娘以外の子供らは、疫病で悉に殺されてしまった逸話等が良い例だと思います。
 後者には、多くの糧を得ようと入ってはいけない三輪山に入ったために蛇神の祟りで疫病等々災いがあった事や、蘇我稲目が、物部大連尾輿・中臣連鎌子の意見を聞かず、欽明天皇から「願人の稲目宿禰に授けて、試しに礼拝させてみよう。」と言われ、喜んで小墾田の家に安置し、向原の家を清めて寺としたが、この後国に疫病が流行ったことなども例として挙げることが出来る。
 大津波が襲ってきた事は、戦後経済的に豊かになってきた中で驕り、知らず知らずのうちに「かしこきもの」への非礼・不敬な事を行ってはいなかったかを反省する事から自分たちの生き方の検証をし正していく事から考えなければならないと思う。
 福島第一原発の事故は、大津波の可能性を無視した事、老朽化した時どのようにすれば完全廃炉することが出来るのかも結論が出ないままに、町おこし・雇用・経済財政等の糧を餌に各地に原発を造っていき、原発に頼らざるを得ない状況にしてしまった事が、触れてはならないというか、まだ触れるには早すぎたことによるものと考えなければならないと思う。
 この様な、反省を行った後で、生き方そのものを見定めた上で、「ムスビ」という生成発展の霊力としての神(自身を起源とする生命の連続が今日に及んでおり、その時代時代に存在するものにとって、血と心の繋がる祖神であり、祖霊崇拝の根拠であり、現生活の中で生成発展していくことを前向きにしてくれる確信を与える存在であり、恵みを与えてもらえる根元。)の加護により未来に向かうべきだと思います。

人霊について

人霊について

 人霊でまず思い浮かぶのが、天皇の御霊を祀ることである(天皇そのものが神であるから人霊と言っていいのか疑問があるが)。

 天皇以外では、平安時代以前では、大和政権が征服を進める際に敵方の霊を弔ったという隼人塚がある。

 また、①祟りによる災いを鎮めるため(日本三大怨霊である菅原道真・平将門・崇徳上皇など)・②威光を示すため・③偉功を称えるため・④祖霊の様に人霊を祀ることが通例であろう。

 ①として、霊魂が肉体から遊離して災いを与える生霊・突然、肉体だけが滅びた状態になり、霊魂は行き場を失い、空中をさまよう浮遊霊なども人霊と言えるのではないか。

 江戸時代に至ってもなお、庶民は一般的に怨霊に対する畏怖感、恐怖感を抱いていたため、祟りによる災いを鎮めるために人霊を祀るケース(お岩さんなど)は見受けるが、近代・現代になるほど少なくなっている。災いに対して個別の存在による祟りと考えるよりは、自然などに起因し、お祓いによって取り除こうとする方が一般的になったのではないだろうか。

 ②・③として、国家・藩・家などに尽力し、偉業を成し遂げた人を、祀ることによって、その威光を利用したり、肖ったりする流れは続いていくだろう。

 ④に関しては、仏教伝来以降、祖先祭祀が薄れてきていたが、神葬祭が一般に普及してくると、威光・偉功などに関係なく、「子孫を残したこと・生まれてきたこと」だけでも祀られる様になっている。「戦没者の霊・被災者の霊」なども同様である。

「風の音の遠き神代に天津神の奇しくも妙なる御産霊もちて、万の物を成り出せしが中に、人という人は天津神の天津御霊を受けて、此の世に成り出でたる者なり、倭姫命は「人は生まれながらに神なり」と宣り給へり」・「日の本に生まれ出にし益人は、神より出て神に入るなり(伊勢・豊受大神宮の江戸時代の神官・中西直方)」などからも、
全ての人は、死んでしまえば皆「人霊」であると言える。

現代に於ける人神

 「大己貴神が幸魂・奇魂を三輪山に勧請したことに倣い、生勧請を行い皇霊に仕える」という考え方が理解される状況が在ったからこそ、「幕府を滅亡させても天皇中心の国で有る限りこの国は大丈夫」というコンセンサスが形成され、尊皇のために命を捧げることができたのだと思う。
 新政府側としても、国家統合を強化するためには、尊皇思想しかこの国には考えられず、天皇陛下が政治の頂点にあることの意識を民衆の多数のコンセンサスから国民全体の合意に高めていく必要が有ったのだろう。戊辰戦争の英霊を神として祀るために、全国に招魂社を創建したのもそのためだろう。
 「蘇我氏・道鏡・平将門を討伐した古代の忠臣」「楠木正成・北畠親房などの南朝の忠臣」「皇室尊崇の事跡が認められた戦国武将」「顕彰される臣下として位置づけ直された天下人」「明治維新の功労者」祀る神社を「別格官幣社」に位置づけたのもそのためだろう。
 ただ、民衆は、多様で有り、新政府の思う通りには動かないもので、英霊顕彰・慰霊・手本・御利益等の思いが有ったり、新政府に刃向かった者も同様に扱ったりするのである。 
 また、靖国神社の栞の祭神の欄には、『靖國神社には、幕末の嘉永六年{一八五三)以降、明治維新、戊辰の役、西南の役、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や戦争に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた二百四十六万六千余柱の方々の神霊が、身分や動功男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖國の大神)として斉しくお祀りされています。
 その中には軍人ばかりでなく、明治維新のさきがけとなつて斃れた坂本龍馬・吉田松陰・高杉晋作・橋本左内といった歴史的に著名な幕末の志士達をはじめ、戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡くなられた学徒などの軍属、文官、民間の方々も数多く含まれています。また、その当時、日本人として戦い亡くなられた台湾及び朝鮮半島出身者やシベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々も同様に祀られています。このょぅに多種多様な方々の神霊が、祖国に殉じられた尊い神霊として一律平等に祀られているのは、靖國神社創建の目的が、「国家のために一命を捧げられたこれら人々の霊を慰め、その事績を後世に伝える」ことにあるからです。』となっており、現代では神となる条件は殆ど、無くなりつつあるように思える。
 天皇の親拝問題{昭和天皇は、戦後は数年置きに計8度(1945年・1952年・1954年・1957年・1959年・1965年・1969年・1975年)靖国神社に親拝したが、1975年(昭和50年)11月21日を最後に、親拝を行っていない。この理由については、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたからという仮説があったが具体的な物証は見つかっていなかったが、宮内庁長官を務めた富田朝彦が1988年(昭和63年)に記した「富田メモ」、及び侍従の卜部亮吾による「卜部亮吾侍従日記」に、これに符合する記述が発見された。平成の現在も今上天皇による親拝中止は続いている。なお、例大祭の勅使参向と内廷以外の皇族の参拝は行われている。}の理由は確定しないが、天皇陛下に参拝しない自由があったり、遺族が、祀って欲しくない訴訟を起こしたり、逆に「祀ることは自由で、信教の自由を侵害されてはならない。」との主張もある。このことからも、終戦後のこの国では、変な「横並び平等主義」が正当化され、帰幽した者全てが神になる可能性がある。つまり、「あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の人と思へば(太田垣蓮月)」のように「会津藩士や西郷隆盛も祀るべき」との意見も強くなるだろう。「あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の人と思へば」しかし、もう一つの正当である「個人の自由」によって、家族と同じ墓に入りたがらない者すら多く存在するようになり、このような者は、他人に神として祀られるなど想像すら出来ないのである。前者は、何が尊いかが曖昧な世相で有ることを示し、後者は、家族・地域・共同体の崩壊を示している。
 この国の、未来を考える上で、人が神として祀られるべき条件を明確化し、尊敬・感謝・畏怖・肖りたさ等々を感じられることが大切で、全体としては逆賊であっても、地域に於いて、尊敬・感謝・畏怖・肖りたさ等々を感じれる者は、神として祀られるようなコンセンサスを得ることも大切である。自分たちの存在が、何によって造られ、守られ、支えられているのかを深く考える環境整備を考えていかなければならない。本来、海外から、A級戦犯の合祀に何を言われようとも、彼らが、国民全体が責めを負うべき事柄を一身に受けて処刑されたことに有り難さを感じ、それをどう形に表すか考えたとき、この国の国民であれば、海外の批判と共に批判するのではなく、自然に、掌を合わせ額ずくようになるはずである。

幸魂・奇魂

幸魂・奇魂

 一説には、幸魂とは、狩猟・漁猟などにおける獲物(さち)をもたらす霊魂で、奇魂とは、人に健康をもたらす霊魂とされている。
 別の説としては、本居宣長らによるもので、幸魂・奇魂は、和魂の徳用・機能の称で、荒魂・和魂のような単独の霊魂を表すものではないとするものである。
 また、一霊四魂説(一霊は直霊(なおび)、四魂は荒魂・和魂・幸魂・奇魂)では、それぞれに固有の性質や機能を持ち、また補完し合うものとして、並列的な存在とされている言い方と和魂が幸魂・奇魂に分かれるという言い方とがある。
 また、幸魂・奇魂は魂魄であるとする解釈もある。
 山崎暗斎は、大己貴命の瓊を被って、長隠給いしは、大己貴命全体の御特で、これをお祀りした所が、出雲大社であり、和魂であるとし、それに対して、三輪山に留められた幸魂・奇魂は、只一筋に朝廷守護の覚悟から行われたことで、これは計りの心であるから荒魂であるとしている。つまり、全体を祀った場合は和魂で、何々のためとか祟りを鎮めるために祀った場合を荒魂と言っている。(荒魂・和魂の傳)
 幸魂・奇魂は大己貴命の心神であり、天つ神の霊であり、臣民の本体である天つ神の御魂でもある(神籬磐境伝を参照)が故に、大己貴命は、幸魂・奇魂との対話の後に、三輪山に留められたことにより、天つ神の御心と一つになって葦原中国を平定し、やがて天つ神の命令によって、その国土を天孫に奉還し、天孫と共に、わが国一貫の生命である皇統守護の任に就くことになる。
 出雲国造神賀詞では、国譲りのとき、「己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主云々」とある様に、幸魂・奇魂ではなく、和魂としている。

 記紀において唯一の用例が、大己貴命と幸魂・奇魂の対話の後に、三輪山に留められた場面のみでありながら、和魂を分けたのが幸魂・奇魂としているのが多数であるが、山崎暗斎の説も説得力がある。とすれば、荒魂・和魂それぞれに幸魂・奇魂の性質や機能があると解釈すべきではないだろうか。

参照 神籬磐境伝

五大神勅とは次の通りである。
1.『宝祚無窮(ほうそむきゅう)の神勅』
葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。
2.『同床共殿(どうしょうきょうでん)の神勅』
吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡をすべし。
3.『斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅』
吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし。
4.『神籬磐境(ひもろぎいわさか)の神勅』
高皇産霊尊、よりて勅して曰はく、吾は則ち天津神籬及びまた天津磐境を起樹てて、當に吾孫の爲に齋ひ奉らむ。汝、天兒屋命・太玉命、宜しく天津神籬を持ちて、葦原中國に降りて、亦吾孫の為に齋ひ奉れと。
5.『侍殿防護(じでんぼうご)の神勅』
天照大御神、天兒屋命・太玉命に勅すらく、惟はくは、爾二神、亦同じく殿の内に侍ひて、善く防ぎ護ることを為せ

以上をふまえて
神籬磐境伝
 天神地祇八百万大神の元であられる大元神(天照大御神)の御子孫たる天皇と天神地祇八百万大神の流れである国民の関係は、本末の関係となり、あたかも、"皇本民迹"(天皇が個々の国民として現れた、国民は天皇の分化化身)となる。
 神籬と磐境というのは、「天子は日を守り(神籬)、臣下は君を守りて誠を尽す(磐境)」ことで、この君臣道の根本が日本に於いては、天照大神の御誓約によって確立され、その齋奉を天児屋命、太玉命に託せられた。
これが神籬磐境の神勅で、唯一神道において神道の根元となるものである。
 そして顕露には「万人」は,天皇を守ることに於いて,その霊を長く高天原の「日之少宮」に留めることが出来るのであり、人間として,自己の生命の根源がそこにあることを謹みをもって見つめ敬虔に天皇を崇敬しなければならないということである。
また、隠幽には、三種神器を本とする、十種神宝により、自分の魂を鎮魂したものは絶対的な善となり、神として神我を顕現させることができるのある。
 つまり、顕として、皇室に帰一し臣民としての本分を尽くし、自分の適性個性を活かして社会貢献することにより天壌無窮の皇運を扶翼し奉り、幽として、皇室に帰一し、十種神宝により、自分の魂を鎮魂し、さらに帰神して神人合一し、神として神我を顕現させることが、本来の自分たる神に帰ることであり、神力を発揮することである。

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