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古来の神事と本殿造営について

 本来神事の形は、巨石や巨木や山や集落の中心に斎殿を設けて依代に神様をお招きして、御馳走や讃え言葉や歌舞音曲などでもてなすこと、そしてその意味は喜んでお帰り頂くとによって
①自然災害も無く
②豊かな恵みや
③人としての高まりや
④その姿を見て子孫が親や目上の人などを敬うようになると信じていました。
 また、田を始め土地は神様からお借りしているもので、これらを行い、直会をしてより神に近づくことで、更新してまたお借りすることが出来ると信じていました。


 神が常駐する本殿が造営され始めるのは、寺院建築の伝来から一世紀後の七世紀中頃と考えられます。六世紀以前の本殿は考えにくいと思います。これは一番早くてのことです。

​ 実際には、持統天皇四年(690)の皇大神宮・持統天皇六年(692)の豊受大神宮の遷宮の開始から本殿が始まったと考えられるかもしれません。とすれば七世紀後半となります。
 一番指示されているのは、聖武天皇が国分寺・国分尼寺の建立を、天平十三年(741年)に全国の各国に命じた後に、自分たちの氏神様にも常駐してほしいと願い、本殿の建立が始まったとする説で、八世紀半ばになります。

 島そのものを神とし、厳しい服忌令まで設けていた厳島にとって、本当に本殿を建立したのは、何時のことなのだろう。 

参考

厳島服忌令

令は天子より天下に令する公法也。然るに今某の社の服忌令と云うが如き、往々私に立るところ也。但、これを法と云うべし。令というは僭也。殊に當國、厳島の服忌、覺るべからざること多し。疑らくは古法に非じ。中間、神官々儈の無知妄作、終に人を罔ひ神を誣るに至る、あに法とするに足らんや。

 

厳島の禁忌
古くから島自体が「神」として祀られている。鎌倉時代、神職が住みつき、南北朝時代をこえるころから商人を中心に人々が生活を始めたが、神の島へ住むのであるから様々な禁忌のもとで生活を強いられた。
「厳島服忌令(宝永七年1710年)」は厳島の禁忌を集大成したものである、次の様な禁忌が示されている。
① 妊婦が産気づくと、対岸の大野赤崎に渡し、産後50日を過ぎるまでは島に帰ることを許されなかった。
② 島の東西には血山(あせやま)が設けられており、月経中の女子や赤碕から帰ってきた人を当分ここで過ごさせた。 イ、お産の場合は25日。 ロ、月経の場合は9日など、と定められていた。
③ 死人が出るとただちに、神域を通らない様うにして赤崎に運ばれた。勿論墓は「赤碕」に建てたから島には「一基の墓」も無い。これは今も存続している。
④ 鹿は「神鹿」として古くより保護されている。かつては「鹿を殺した者」は屍を背に負い、引き回しの上追放された。犬は鹿の敵であり飼育を禁じられた。
⑤ 農耕は「神体」へ鍬を入れる事として、許されなかったから、島民は生産に恵まれなかった。誓真と言う「僧」は大願寺弁才天の「琵琶」にヒントを得て「杓子」作りを島民に教えた。

不便そうだが今でも宮島には墓はない。そんな神の島である。
明治以前の江戸時代中期頃、厳島神社の本宮に対し、対岸の地御前神社を外宮と呼び、血の穢にて子産める女は外宮の宿院村にて出産後100日を過ごし、帰島する慣わしがあり、生理になると婦人は島内のアシ山に行くなど、窮屈な生活を余議なくされていた。
これらは厳島の風俗に関する事の一部である。
島中の禁制事項は芸藩通志に、忌に関する「厳島服忌令」宝永七年(1710)の写が伝えられている。

現在神社の一部神官は毎朝、身を清めないと神前には行かれないし、巫女も、かってのアシ山状態で出社まかりならんということのようである。


「厳島の風俗」の項に禁制事項として記している。

1 島に絶えて五穀を作らず、菜蔬(さいそ 野菜の事))はよそより船に載せ来るを買うなり。又紡績織紝(じん)のこともせず。
此のことは明神の御誓ありとて土俗禁制の如く云ひ習はせり、毛利氏の掟にも布をり布さらす事を禁止するの條あり、古例を存せるなるべし、されば島内の千戸の民、衣食乏しかるべきに、饑寒(きかん)の憂いなきは、みな神を仰きて、生理を成せり神の恵大ならずや。
2 島に猿鹿多く市中に馴れ居る、猿は常に人家に入りて食物をぬすめども、これを罰せず、但し神の供物にさはる時は、島人相集まりて狩り捕へ、牽(ひ)きまわして、能美島、黒神島などへ放つ。
3 鹿は角切とて、八月頃海に牽き行き、船より角を鋸断す、角老いぬれば人に触の患あればなり、又鹿の角は春落れど己が食物とするといへり、此の島にて、春に限らず、これを拾う事あり、中にも袋角(ふくろづの)を得るを福とす。島に狗(犬)は飼わず、是鹿を害する故なるべし
もし里の狗(犬)渡り来れば、島民捕らえて地の方に渡すなり、また島に鹿を殺したる人あれば、その死鹿を負わせて市を引き巡し、地の方へ渡すという
4 盗賊を捕らえれば、偽鬢偽眉(かたびんかたまゆ)を剃って地の方に渡す
5 島に一向宗の寺かつてなし、外より来り家するもの、まずこの宗旨を改めて後に住居せしむとなん。
6 島人、白木の箸を用いるるを禁ず、正月四日の祭祀に、白箸を神に奉献するゆえとかや、されば五彩の楊枝、島の名産とす。


大元神社の奥にはあせ山(血山)があった。他にも不動堂の山側にあった。厳島服忌令が発布される。
1684年江戸幕府による「服忌令」が発布、26年後の1710年には「厳島服忌令」が発布される(喪に関する法令)。
1710年2月 江戸服忌令あり。
 

本地垂迹説の創始について

 真言宗の東密小野流の僧勝覚が、師から伝えられた宮中における夜居(天皇の身体を守るために護持僧が夜を徹して伺候すること)の作法について記した『護持僧作法』には、他に先駆けて「本地」という言葉が見られ、日本の本地垂迹説は同派の護持僧によって説かれたもので、11世紀前半に成立したと思われます。

安芸国の成立について

 天平六年(734年)、続日本書紀第十一巻に「大竹川をもって安芸・周防の国境とする」
安芸国はこの時定められたものと考えられます。

推古天皇が安芸国に行幸された記録を、見つけることができない。 

 新羅征討のため久米皇子を送ったが、推古十一年に筑紫で薨去され、周防国佐波で殯宮を設け、土師連猪手を遣わし殯宮のことを掌らせた。

 二十六年に川辺臣を安芸国に遣わして船を造らせた。

 これらを踏まえて、佐伯と安芸について集めた資料を提示しますので、お読み下さい。また、、矛盾点など感じましたら、より深く研究いただきたいと思います。

佐伯と安芸

一 佐伯の祖と佐伯蔵職

 日本武尊が東征で捕虜にした蝦夷を初めは伊勢神宮に献じたが、昼夜の別なく騒いで神宮にも無礼を働くので、倭姫命によって朝廷に差し出され、次にこれを三諸山(三輪山)の山麓に住まわせたところ、今度は大神神社に無礼を働き里人を脅かすので、「畿内に住むべからず」との景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖であるとの起源を伝えている。(景行天皇紀五十一年八月条)(景行天皇71-130)

 猪名県の佐伯部の者が、仁徳天皇が秘かに愛でていた鹿をそれとは知らずに狩って献上したため、恨めしく思った天皇によって安芸国渟田(ぬた)に移されたのが「(安芸国)渟田の佐伯部」であるとも伝えている。これらの伝承の史実性はともかくとして、古墳時代の中頃(五-六世紀)には、東国人の捕虜を上記五ヶ国に移住させ、佐伯部として設定・編成したのは事実のようで、「佐伯直」や「佐伯造」といった在地の豪族が伴造としてこれを管掌し、これら地方豪族が更に畿内の中央豪族佐伯連(後に宿祢に改賜姓された)に管掌されたため、佐伯部は間接的に中央佐伯氏の部民とされ、その中からは宮廷警衛の任務に上番させられた者もいたと見られている。(仁徳天皇紀38年7月)(仁徳天皇313-399)

三十八年春一月六日、八田皇女を立てて皇后とされた。
秋七月、天皇と皇后が高台に登られて、暑を避けておられた。
毎夜、菟餓野とがのの方から鹿の鳴く音が聞こえてきた。
その声はものさびしくて悲しかった。
二人とも哀れを感じられた。
月末になってその鹿の音が聞こえなくなった。
天皇は皇后に、
「今宵は鹿が鳴かなくなったが、一体どうしたのだろう」と言われた。
翌日、猪名県いなのあがたの佐伯部サエキベが贈り物を献上した。
天皇は料理番に、「その贈り物は何だろう」と問われた。
料理番は答えた。「牡鹿です」
天王は、「何処の鹿だろう」と言われた。
料理番は、「菟餓野とがののです」と答えた。
天皇は思われた。
この贈り物はきっと、あの鳴いていた鹿だろうと。
天王は皇后に、
「私はこの頃、物思いに耽っていたが、鹿の声を聞いて心が慰められた。今、佐伯部サエキベが鹿を獲った時間と場所を考えるに、きっとあの鳴いていた鹿だろう。その人は、私が愛していることを知らないで、たまたま捕ってしまったが、やむを得ぬことだが、恨めしいことである。佐伯部サエキベを皇居に近づけたくない」と言った。
役人に命じて安芸の淳田ぬたに移された。
これが現在の淳田ぬたの佐伯部さえきべの先祖である。
里人さとびと(その土地の人)のこんな話がある。
「昔、ある人が菟餓とがに行き、野中に宿った。その時、二匹の鹿が傍に伏せていて、暁方に牡鹿が牝鹿に語った。『昨夜夢を見た。白い霜が沢山降って、私の体は覆われてしまった。これは何の兆候だろう』。牝鹿は答えた。『あなたが出歩いたら、きっと人に射られて死ぬでしょう。塩をその体に塗られることが、ちょうど霜の白いのと同じになる徴でしょう』。そのとき、野に宿っていた人は不思議に思った。明方、猟師がきて牡鹿を射て殺した。当時の人の諺に、『鳴く鹿でもないのに、夢占いのままになってしまった』といわれるようになった」

佐伯鞍職

 大和印南(いなみ)の里に「七色の声で鳴く黄金の鹿」が現れて評判となり、帝の耳に届いた。「その鹿を所望したい」。鹿を捕らえるように勅旨が出たが、怖気付いて誰もこれに応える者がいない。宮廷警護の役人であった佐伯鞍職(くらもと)が進んでこの役を買って出たが、生け捕りにできず射ち取って献上したので、公卿たちは「神使を射殺すのは不敬である」と非難した。帝は、鞍職の気持ちを察しながらも彼らの意見に抗しきれず、結局流刑となり安芸国に流した。(長門本『平家物語』と『嚴島縁起』)

​部名の由来
 平安時代以来、「叫ぶ」に由来するとされてきたが、『常陸国風土記』茨城郡条には、土着民である「山の佐伯、野の佐伯」が王権に反抗したことが記されているので、「障(さへ)ぎる者(き)」で、朝廷の命に反抗する者の意味と説くものもあり、別に上記景行天皇紀に「騒い」だとあることに着目し、「大声を発して邪霊や邪力を追いはらったり、相手を威嚇するといった呪術的儀礼に従事」するのが彼らの職掌で、佐伯部は「サハグ部」であるとの説もある。あるいは、聞きなれない言葉を話すので「騒(さえ)ぐ」ように聞こえたことに由来するとする説もある。

 昔、佐伯郡佐伯町を「さえきぐんさいきちょう」と読んでおり、現在でも、廿日市市佐伯町も「はつかいちしさいきちょう」となっている。「さえき」は、今述べた説の何れかと思えるが、「さいき」は宰木(木材を扱う者の棟梁)の意味から、漢字が佐伯に変わったという説もある。また、只の「訛り」とする説もある。

 

二 嚴島縁起(本地)について

あらすじ
 天竺東城国の「せんさいわう」(善哉王・千才王)の妻となった足引宮は、父大王の后たちから嫉妬され、「せんさいわう」の留守中に山中に連れ込まれ、命を受けた武士たちの手で斬首される。首は「せんさいわう」の母后のもとで手厚く弔われた。
さて、姫は斬首の直前に王子を産み落としていた。王子は、首を失った母姫宮の遺骸に取りすがり、山中の動物たちに助けられて成長する。
 足引宮を失った「せんさいわう」は悲しみに暮れるが、「こひしくはにしをたつねよ」という「ゆふつけのうら」の歌に従って山に入る。その夜の夢に足引宮があらわれていきさつを語り、王子がこの山にいること、また自らの蘇りのことを告げた。
(広島大学本は、これ以後のみ現存)
夢告のとおり、「せんさいわう」は王子と出会うことができた。
 足引宮を蘇生させようとして、王子が持っていた彼女の遺骨をかいらい国の「ふろう上人」のもとに運ぶが、首が失われているために再生できない。王子は上人から渡された剣を手に東城国の父后たちのもとに赴き、その999人の首を切り落とした。ただ足引宮の首を手厚く弔った「せんさいわう」の母后だけが生き残り、足引宮の首を取り戻すことができた。
 早速かいらい国に戻ると、「ふろう上人」によって蘇生の修法が執り行われ、足引宮はもとの姿に蘇生する。上人は3本の剣を投げて親子3人の住むべき地を示し、「せんさいわう」親子は剣の示した「しやからこく」に内裏を新造した。しかし何と思ったか、「せんさいわう」は足引宮の妹に心を移してしまった。これを恨んだ足引宮は飛び車に乗って日本に至り、伊予国の石鎚山から安藝国佐伯郡に移った。
 同じころ安藝国には、罪によってこの地に「さいきのくらもと」が流されて来ていた。「くらもと」は海上の船に足引宮を発見、「くろますのしま」に宮を招く。宮はこの島を「いつくしきしまなり」として、厳島と呼ばれるようになった。またその跡を追って「せんさいわう」、王子、上人、五烏、「せんさいわう」の母后が、それぞれこの地に垂迹、また「さいきのくらもと」も神となった。

解題
 人間としての神の前世を説く、いわゆる本地物の一種。これは厳島神社の神々の本地を題材としており、『厳島の本地』とも称する。天竺・西城国の王女・足引宮と、彼女と関わりを持った人々が、天竺での苦難・転変を乗り越えて日本に到来、やがて厳島で神として垂迹する、という物語である。作品の成立に関わって、同じく本地物の一種である『熊野の本地』との似通いが指摘されている。両者は単純な一方通行の影響関係ではなく、「数次にわたる相互の影響関係があった可能性まで視野に入れ」る必要がある、とも言われる(『中世王朝物語・御伽草子事典』のうち、川崎剛志氏執筆「厳島縁起」の項)。
 諸本はA・B二系統に大別され、A系統は梅沢記念館蔵絵巻と明暦二年版本。対して、江戸時代に広く読まれたのはB系統の本文を有する諸本である。ここに紹介する2本はいずれもB系統に近い本文で、詳細な位置づけについてはなお検討の余地を残すが、近世において広く流布した本文の姿を知ることができるものと言えるだろう。


     広島大学蔵『いつく嶋』(写本)

 巻子一軸の残欠本。巻軸は象牙、組紐がついている。料紙は、金泥及び青色で山水花鳥模様の下絵を描いた鳥の子紙を使い、縦32センチメートル、横49センチメートルを継いで巻子としている。表紙は、藍色地に金泥で水辺草を描いている。奥書はなく、書写者・書写年次は判然としないが、筆跡その他の状況から、近世初期のものとみられる。
 上巻は全部佚し、下巻の一部、「せんさいわう」が山中で王子に出会う場面からあとの部分が残っている。B系統の諸本のうち、続群書類従本に最も近いか。


別の記事

 佐伯鞍職という人が釣りをしていたところ、何やら綺麗な舟が近付いてきました。のみならず、舟にはこの世の者とも思われないほどの美女が……。いったいどこのどなたなのでしょうか? 鞍職の家来がお伺いしたところ、美女曰く「わたくしはこの島に住む神なのです。それに相応しい住処が欲しい」
 鞍職は困りました。神社を建てるには朝廷の許可が必要です。とはいえ、女神様からのお願いを聞き届けないわけにもいかない。鞍職が朝廷に神社建立について上奏したところ、「神烏が榊の枝を持って現われる」という吉兆があったので、造営はすぐに認められました(これはもちろん、あらかじめ女神様が用意してくれた『吉兆』。つまりは『やらせ』です)。
 つぎは、どこに社を建てれば……の問題を解決しなくてはなりません。許可はもらえましたが、このような美しい女神様のためのお社を建てるにふさわしい場所はいったいどこにあるのでしょうか? 「何も心配はいらない。すべては神烏が導いてくれるであろう」とのお答え。
なんと、鞍職には女神様の命を受けた神がかりの烏がサポート役として付けられたのです。さきほど、朝廷に現われた榊の枝を持って来た神鳥の話が出ましたけど、同じ鳥でしょう。神々が住むという高天原から飛来したというのですから、まさに神様の鳥です。ちなみにこの鳥はカラスです。「鳥」と「烏」、字が似ていますので、ご注意ください。
 鞍職は宮島の浦々を物色して回りました。候補地はいくつかありましたが、はたしてどこにすればよいものか。すると、養父崎というところに来た時、御山かられいの「神烏」が飛来しました。神烏は鞍職たちを先導するようにして、ともに浦々を廻り、脇浦(有浦の西部) と呼ばれるところまで到着した後、姿を消してしまいました。なるほどここか! と思った鞍職は、神社建立の場所をこの地に決定したのでした。
 このとき、佐伯鞍職が廻ったという宮島の浦々には小さな社が建てられており、これを参拝して廻るのを「御島巡り」神事といい、現在も行なわれています。それらの浦々の社はすべて厳島神社の末社でして、それらは以下の通りです。
浦々の末社
杉之浦神社、包ヶ浦神社、鷹巣浦神社、腰少浦神社、青海苔浦神社、養父崎神社、山白浜神社、須屋浦神社、御床神社
佐伯氏は古代史に出てくる、有名な氏族の一つです。鞍職さんもその関係者なのでしょうか? 佐伯氏、厳島神主については、メインサイトの「厳島神主家」にも記述があるので、そちらもご参照ください。
ここで重要なことは、厳島神社を創建した佐伯鞍職さんは、のちに神格化されたことです。宮島だと、三翁神社でご祭神になっていましたね。さらに、美しい女神とやりとりした、鞍職さんの家来は名前を「所翁」と言いました。この方も同じく、神格化されています。

参照
熊野の本地くまののほんじ
 御伽草子(おとぎぞうし)の本地物の一つ。室町時代の古写本や絵巻などが数多くあり、15世紀には成立していた。熊野三所権現(さんしょごんげん)の神仏の由来物語で、同内容の物語が南北朝時代の『神道集』に載り、原型がうかがえる。この物語と展開のよく似たものに『旃陀越国王経(せんだえっこくおうきょう)』(『大正新修大蔵経』14所収)があり、また部分的に類似するものに平安時代初期筆録の『東大寺諷誦文稿(ふじゅもんこう)』の物語メモがある。こうした経典や古文献に載る説話伝承をもとに、中世的な垂迹縁起(すいじゃくえんぎ)の物語体裁をとるようになったと考えられる。熊野信仰の教宣に一役買った物語で、熊野の修験山伏(しゅげんやまぶし)や熊野比丘尼(びくに)が管理し伝播(でんぱ)させたものである。

 天竺(てんじく)の摩訶陀(まかだ)国の善財王には1000人の后(きさき)がいたが、そのうちの1人の五衰殿(ごすいでん)は王から寵愛(ちょうあい)されたため、他の后たちに妬(ねた)まれる。懐妊の身の五衰殿は山中に棄(す)てられ、そこで男児を産み、そのまま果てる。王子は動物たちに守られて生き延び、やがて、麓(ふもと)に住む聖人によって尋ね出され養育される。7歳のとき、聖人の計らいで大王に会い、それまでのできごとを打ち明ける。王子は父王の病悩を治し、秘法でよみがえった母后とともに飛車(ひしゃ)に乗って日本に渡った。安住の地を求めてさすらったのち、紀伊(き)の国の音無川(おとなしがわ)のあたりに定着し、熊野の神々となって顕(あらわ)れた、という物語。総じて女人救済の物語といえよう。
『市古貞次校注『日本古典文学大系38 御伽草子』(1958・岩波書店)』▽『『中世・宗教芸文の研究1』(『筑土鈴寛著作集3』1976・せりか書房)』▽『松本隆信「中世における本地物の研究 1」(『斯道文庫論集9』所収・1971・慶応義塾大学)』


 御伽草子。中天竺摩訶陀(ちゆうてんじくまかだ)国の善哉(ぜんざい)王には千人の妃がいたが,なかでも深い寵愛を受ける五衰殿の女御が懐妊すると,他の妃たちは嫉みから,相人(そうにん)をかたらい,生まれる王子は悪王で7日にして九足八面の鬼と化し大王をとり殺し国も乱れるであろうと奏上させる。大王は,やむなく女御を山中深くやり武士たちに命じて首を切らせるが,直前に誕生した王子は,首のない母の骸から三石六斗の乳を呑み,山の獣たちに守護されて育つ。3年の後,霊夢をこうむった〈ちけん上人〉がこれを知り,王子をひきとり養育する。7歳のとき,上人は王子を伴い大王のもとを訪れて一部始終を語り,亡き女御を蘇生させる。一同は女人の心あしき国を嫌い,飛車に乗って日本紀伊国牟婁(きいのくにむろ)の郡に着き,年を経て熊野の神々としてこの世に現れる。室町中期成立の古絵巻をはじめ,写本,奈良絵本,絵巻など多くの伝本が存し,広く流布した本地物である。巻末にこの草子を読むことの功徳や熊野参詣の功徳を強調するなど,唱導色が濃厚である。多少の出入りはあるが,構想,詞章の面で最も近似するのが《神道集》の〈熊野権現事〉であり,《諸神本懐集》《三国伝記》には,天竺から慈悲大賢王が飛来して熊野の神となる伝承をとどめる。一方,山人による聖なる伝承と考えられる山中産育譚は《義経記》巻七で武蔵坊弁慶が語る愛発(あらち)山の由来と軌を一にするもので,熊野信仰を背景とするこの古怪なる伝承は,御伽草子《弁慶物語》へと展開し,説経節《五翠殿》や古浄瑠璃にも影響を与えた。
執筆者:徳江 元正
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 室町時代の御伽(おとぎ)草子。天竺(てんじく)の王妃五衰殿の女御が他の妃に嫉(そね)まれ,山中で王子を産み落としたのち殺される。王子は死体の乳を吸い,山の獣たちに守護されて,またのち〈ちけん上人〉に養育されて成長し,父王にめぐり会い委細を告げる。妃も蘇生(そせい)しそろって日本へ渡り,熊野権現となる,という筋。本地物の代表作。その山中産育譚は御伽草子《弁慶物語》に影響を与えている。
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本地垂迹説について

本地垂迹説の創始
 吉田一彦によると、真言宗の東密小野流の僧勝覚が、師から伝えられた宮中における夜居(天皇の身体を守るために護持僧が夜を徹して伺候すること)の作法について記した『護持僧作法』には、他に先駆けて「本地」という言葉が見られる。吉田一彦は、日本の本地垂迹説は同派の護持僧によって説かれたもので、11世紀前半に成立したと述べている。
 本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのものである法身であるとし、これを本地法身(ほんちほっしん)という。また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。

本地という思想は、仏教が各地で布教されるに際し、その土地本来の様々な土着的な宗教を包摂す る傾向があることに起因する。たとえば、仏教の天部の神々のほとんどはインドのヒンドゥー教を由来とする。この思想は、後に、後期大乗仏教で、本地仏大日如来の化身が、不動明王など加持身であるという概念を生んだ。

 これに対し、垂迹という思想は、中国の『荘子』天運における迹(教化の迹)や、所以迹(教化を成立させている道=どう)に由来し、西晋の郭象(かくしょう)は『荘子注』で、これを聖王(内聖外王)の説明において展開させ、“迹”を王者としての統治・主導とし、“所以迹”を本質的な聖人として引用した。

 そして、後秦代の僧肇がこれを仏教に取り入れた。僧肇は『注維摩詰経』で、魏の王弼などの“本末”の思想を引用し、“所以迹”を“本”と言い換えて、“本”を菩薩の不可思議なる解脱(悟りの内容)とし、“迹”を菩薩が衆生を教化するために示現した方便として使用した。

 日本では、仏教公伝により、古墳時代の物部氏と蘇我氏が対立するなど、仏教と日本古来の神々への信仰との間には隔たりがあった。だが徐々にそれはなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じとし、神を仏の境涯に引き上げようと納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。

 しかし7世紀後半の天武期での天皇中心の国家体制整備に伴い、皇祖神である天照大神を頂点として、国造りに重用された神々が民族神へと高められた。仏教側もその神々に敬意を表して格付けを上げ、仏の説いた法を味わって仏法を守護する護法善神の仲間という解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に菩薩号を付すに至った。

 一方で、死霊などの小規模な民族神は、この本地垂迹説を用いずに区別した。例としては、権化神(権社神)に対する実類神(実社神)などである。このため、仏教側では権化神には敬意を表してもよいが、実類神は信奉してはならないという戒めも一部に制定された。これは仏教の一線を守るという考えのあらわれと思われる。

 この本地垂迹説により、権現造りや本地垂迹の図画なども生まれ、鎌倉中末期には文学でも本地物(ほんじもの)と呼ばれる作品が創作された。

 戦国時代には、さらに天道思想による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった。

 末法思想との関係
 院政や武士の台頭による政治の流動化、天災や戦乱による社会の混乱を背景として、末法の世の実感とそこからの救済願望が生まれた。そのため浄土信仰が盛んとなり、法然を始め新しい仏教諸宗派が登場したが、それは伝統的な神祇信仰の変容と再生も促した。この終末意識には粟散辺土観も影響した。仏教のインド中心の世界観では、末法の世の日本の人間は堕落していて救済されがたく、正当な教化の方法では救済できないとされる。そこで仏が仮に神の姿をとってこの辺土に現れ、厳罰をもって人々を教化し救済を志向したというのが、本地垂迹説の意図するところである。 こうして神々は、共同体の神から個人を救済する神へと変貌を遂げた。

 反本地垂迹説
 鎌倉時代中期には、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従うと考える神本仏迹説も現れた。仏教から独立しようという神道側の考えから起こったものである。伊勢神宮外宮の神官である度会氏は、神話・神事の整理や再編集により、『神道五部書』を作成、伊勢神道(度会神道)の基盤を作った。伊勢神道においては、現実を肯定する本覚思想を持つ天台宗の教義が流用されて神道の理論化が試みられ、さらに空海に嘱託した数種類の理論書も再編され、度会行忠・家行により体系づけられた。

 反本地垂迹説は、元寇以後の、日本は神に守られている「神の国」であるとする神国思想のたかまりの中で、ますます発展していった[4]。

 南北朝時代から室町時代には、反本地垂迹説がますます主張され、天台宗からもこれに同調する者が現れた。慈遍は『旧事本紀玄義』や『豊葦原神風和記』を著して神道に改宗し、良遍は『神代巻私見聞』や『天地麗気記聞書』を著し、この説を支持した。吉田兼倶は、これらを受けて『唯一神道名法要集』を著して、この説を大成させた。しかし鎌倉期の新仏教はこれまで通り、本地垂迹説を支持した。

 9世紀のころ、それぞれの神の権現号がみられるようになった。

 12世紀のころ、それぞれの神の本地仏が定められていった。

 安芸国の成立について

 現在の広島県にあたる地域は,備後国と安芸国に分けられていました。備後国は,七世紀の終わり頃に吉備きびの国くにを三つに分けてその西端をあて,安芸国は,安芸国造(大和朝廷成立の頃任命)の所領を、天平六(734)年に西の周防すおうの国くにとの境を大竹川(現在の小瀬川)に定め、確定されたと考えられます。
 当時の備後国や安芸国の様子は,『日本書紀』などの文献から読み取ることができます。地方制度の仕組みは,国くに・郡こおり・里さと(里は後に郷さとに変更)の三段階に分けられました。奈良時代の初め頃に,備後国は14郡,安芸国は8郡に区分されており,都まで様々な税を運んでいたことなどが分かります。

土産飽きたるの意とする説(飽のとは、五穀がよく稔り食物が沢山とれるという意味)

秋=豊穣を願う瑞祥とする説(安芸は秋からの変化とする説)

後年に同じ読みの言葉から連想された説話の類とみてよいでしょう。

アク=湿地とする説(アキはアクが変化したもので、アクはアクタ(芥)が変化したものとする説)

アギ=高所とする説(アキはアギが変化したもので、アギはアゲ(上げ)が変化したものとする説)

ハキ=吐き=崩落地・崖地とする説(ハキ(吐き)は崩落地や崖地を意味する)

地名由来説(安芸国には安芸郡があり、安芸郡には安芸郷がある)

阿岐から安芸に(和銅六年(713)諸国郡郷の名は、好字を着けよ )

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