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神道の葬儀

■不幸にして人が亡くなることを神道では帰幽(きゆう)といいます。神道の考え方では人は神々と祖先の恵によって現世(うつしよ)に生まれ生活をして、死しての後の御霊(みたま)は、幽世(かくりよ)に帰り、やがて祖先の御許(みもと)に帰りつくとされています。

■ 神道の葬儀は、「枕直しの儀」・「帰幽奉告の儀」・「遷霊の儀」・「通夜祭」・翌日の「葬場祭」・「発柩祭」・「火葬場祭」・「帰家祭」となっています。

  通夜

夜を徹して故人の蘇生を願って行った古代の殯(もがり)の遺風とも言われる鎮魂の儀礼です。

  枕直しの儀

まず、北枕で寝かせます。
枕元には、白無地の屏風を逆さに立てて刃物を台や盆の上にのせ、刃を遺体の方に向けないように置きます。
供物は、小机か八足台(案)の上に、次のようなものを置きます。
 米(洗米でもご飯でもそのままでもかまいません。)・御神酒・塩・水・常饌(故人が生前好んだ食べ物。)・榊
神棚と霊舎に家人の帰幽を喪主が奉告し、お供え物を撤して五十日祭までの間は神棚の全面に白紙を貼り、霊舎を閉じます。
出来ない事は省略しても宜しいので、無理をしないようにしましょう。

  帰幽奉告の儀

神職により産土の神様と幽世の神様へ、故人の帰幽を奉告します。神社によっては、「枕直しの儀」の際に行われることもあります。

  遷霊の儀

通夜の時、室内を消灯して故人の御霊を霊璽(れいじ)に遷し留める「遷霊の儀」が行われます。

 通夜祭

故人の死を確認し、葬場祭への、心の準備をし、故人に死を受け入れて貰う為の儀式です。

  葬場祭

神職が奏上する祭詞には故人の経歴や功績人柄が読み込まれ、会葬者と共に故人の遺徳を讃え、在りし日の姿を偲ぶ、人の世の終焉に際しての最も厳粛な儀式です。

  発柩祭

通夜祭を終えた翌朝、葬場に向かう際に行う儀式ですが、近年は省略されています。

  野辺送りの火葬場祭

火葬場での最後の別れの儀式になります。

  清めの塩

通夜及び葬場祭に参列した場合や火葬場から戻った遺族は「清めの塩」を使います。これは宗教的な儀礼というより、お弔いに関しての日本人の民族的な思想の概念によって行われて来た風習ともいえるものです。

  帰家祭

喪家もしくは斎場にて、安置された御霊に対して葬儀が無事終了した旨を奉告します。

  旬日祭

仮霊舎の霊璽を中心に「旬日祭」として十日毎(十日祭 ・ 二十日祭 ・ 三十日祭 ・ 四十日祭)に斎行し、五十日祭は特に「忌明け」とも呼ばれる重儀となります。
五十日祭の折りには特に「忌明け後清祓の儀」が行われ、納骨並びに仮霊舎の霊璽が霊舎に合祀されます。
この日から、神棚と霊舎の白紙をはずし、おまつりを再開します。新年を迎えるための氏神様の神札もこの五十日が過ぎていればお受けできます。

この後「百日祭」を経て「一年祭」更に「三年祭」「五年祭」「十年祭」と以下おもに十年毎に霊祭が各々周年祭として斎行されます。(旬日祭・年祭はその時の都合等により省略される場合があります。)

ご参考までに

◇安置
末期の水、湯灌、死に化粧、など基本的に仏式と一緒です。
死に装束は、経かたびらではなく、小そでになります。
白い木綿の小そで(きもの)に、白たびを履かせるのが正式です。
現在では、故人が好んで着ていた衣服を着用させその上に小そでを掛けるのが一般的のようです。

◇納棺の儀
枕直しの儀が済んだ後、納棺の儀に移ります。
通夜に先立って遺体を棺に納める儀式で、正式には神職を招きますが、近年では葬儀社の人に手伝ってもらい、遺族の手でするようになっています。
出棺までの間は、朝夕の2回、米、水、塩などを供え、遺族が礼拝する「柩前日供(きゅうぜんにっく)の儀」を行います。

◇霊璽(れいじ)
仏式の位牌に当たる物 鏡または、柾目(まさめ)を通った白木に故人の名前と生年月日を書き入れたものです。

◇通夜振る舞い
基本的に仏式と同じですが、神式ではなまぐさ物は禁じていません。
日本では、古来より死後の世界を黄泉の国と言って、穢れた世界としています。
神道では、死のけがれを忌む習慣が強く、家の火がけがれないようにというので、通夜振る舞いでは、他の家で煮炊きしたものか、外から取り寄せたもので接待します。
また、神前に供えた饌を皆で食し供養したと言うところから、通夜振る舞いに発展したと言う説もあります。

◇葬場祭
神前に通夜祭の時に供えた常饌をすべて新しい物にかえます。
棺は部屋の中央、一番奥に安置し、故人の姓名と位階、勲功など社会的地位があればそれらも記した銘旗(仏式の位牌に当たります)を立て、棺を囲む三方に壁代をめぐらし、その外側に、不浄を防ぐ意味を持つしめ縄つきのいみ竹をたてます。(昔行っていました。)

◇忍び手にて二礼二拍手一礼
神式の拝礼では、二礼二拍手一礼と言って、二回深くおじぎをしてから、忍び手と言って音を立てないように二回柏手(かしわで)を打ち、最後にもう一度礼をします。

{ちょっと考えたこと}

1 通夜祭と通夜について

 広辞苑によると、通夜とは、① 神社仏閣に参籠し、終夜祈願すること。② 死者を葬る前に家族・縁者・知人などが遺体の側で終夜守っていること。となっています。
 今回は、死者を葬る前に家族・縁者・知人などが遺体に側で終夜守っている通夜について考えたいと思います。
 通夜は、一般に、夜を徹して故人の蘇生を願って行った古代の殯(もがり)の遺風とも言われる鎮魂の儀礼とも言われています。古代では呼吸停止をもって直ちに死とはみなされず、蘇生しないことを確認したあと、喪に入ったとされていました。またその間は生前のように棺に朝夕供饌し、歌舞音曲や飲食などの遊びをして魂呼びを行ったそうです。 長期間にわたることもあり、天武天皇の殯の場合は二年余にわたったことが「日本書紀」に記されています。それが中世以後になると、もっばら読経供養に変わりますが、魂呼びの儀礼は今日なお慣習として残っているところもあるそうです。
天皇の殯宮儀礼は、六世紀頃より唐の殯の影響を受けて、遊部の奉仕による儀礼とともに、誄(しのびごと)の奏上や諡を奉るなどの大陸にならった儀礼が行われるようになったそうです。
 これらのことから、通夜とは「古代の殯(もがり)の遺風で、蘇生を願い、生前のように棺に朝夕供饌し、歌舞音曲や飲食などの遊びをして魂呼びを行うことで、長期間にわたることもあるもの」と定義できます。つまり、通夜の期間はまだ生きていると見なす期間を指すことになります。
 通夜祭について考えてみると、蘇生しないことを確認したあと、喪に入って行う儀式と考えるべきではないでしょうか。なぜなら、「誄(しのびごと)の奏上や諡を奉る」儀式である点で、誄(しのびごと)とは、死者に述べられ哀悼の言葉・悲しみを表明するとともに、生前の功績や善行を讃えたりする行為であり、明らかに死者を対象に為されるものです(まだ生きていると見なす期間に行う儀式ではない)。 忍手についても、神葬祭において、祭壇の前で死者に向かって打つ無音の拍手と定義されており、あくまでも死者が対象であることが原則であることを読み違えてはならないと思います。重ねて申しますが、通夜の時点と通夜祭を行う時点とを混同しがちですので気を付けるべきです。そう考えると、死亡確認書が発行された時点で、帰幽報告祭を行うのは当然のことです。遷霊の儀も通夜祭の前であろうと通夜祭の後であろうと構わないことになります。

2 神葬祭における修祓について

 忍手とは、「音がしないように打つ拍手のこと。短手とも表記し、神宮祭式作法のなかで八開手ののち、最後に音がしないように打つもの。また、神葬祭において、祭壇の前で死者に向かって打つ無音の拍手。」と定義されています。
 一般には、音を立てなければならないのだけれども、故人や故人の家族・縁者・知人のことを思うと音が出せない感情を表した所作ではないかと思っています。この感情によって、祓戸神に対して忍手になることは不敬なことになるのでしょうか。その場を少しでも清らかな状態にしたいと思う気持ちで修祓を行う事が不敬なことになるのでしょうか。 祓戸神の立場で皆さんはどう考えるのか、私は感情・気持ちを理解して頂けるものと信じます。

3 奉幣行事について

 幣が依り代・装飾・供物のいずれでも必要であるならば、最初から奉っておけば宜しいのではないでしょうか、その行事の必要性を感じません。また、心中年祈念は何を祈念するのか、所役の中に何々所役とか何々後取とかあるべきなのに、なぜ所役としか言わないのか、所役が正中に座す司の斜め前から受け渡しを行う事や反命の際、揖も無く着座するなど理解できないことが多いのは私だけでしょうか。 

通夜と通夜祭

通夜と通夜祭
 私は、通夜と通夜祭を分けて考え、帰幽報告祭によって両者は分けるべきだと思う。帰幽報告祭を行うまでは、呼吸の停止をもって直ちに死とはみなさず、蘇生しないことを確認したあと、帰幽報告祭を行うことによって喪に入ったと考えるべきだと思う。つまり、通夜までは、明らかに死が確認できたとしても、① 大規模な墳墓の整備のために、② 天下の凶事によって国を不安定にしないため、③ やむにやまれぬ理由があって死の穢れに触れていない状態でいるため、④ 別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、且つ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認するためなど、相当の理由がある場合に行われてきた殯と同じと考え、帰幽報告祭を行った後に行う通夜祭は葬送の儀の一部であると考えるべきだと思う。
 現代において、神葬祭でない場合は、医師によって死亡が確認され、死亡届を提出し、死体埋火葬許可証を受けた時点で殯は終えていると考え、神棚等に白い神で覆う等の作業を行う時間を設けるためには、喪に入るのは死亡届を提出した時点からと考えるのが相当ではないでしょうか。
 通夜祭も殯と考えている方々が多数居られますが、火葬の時代で且つ五十日祭に納骨する昨今、墳墓の整備はほぼ理由にならないし、死に譲りが原則になっていれば、天下の凶事もあり得ないし、今時は遺体の腐敗・白骨化を待つのは耐えられないと思いますし、況してや、生前のように棺に朝夕供饌し、歌舞音曲や飲食などの遊びをして魂呼びを行うこともできる人は少ないと思います。通夜祭と殯を行う理由との共通点はどこでしょうか。
 また、山崎暗斎が「生勧請」を行い生きている間に霊璽を作り、垂下霊社に祀っていたことを考えると、いつ遷霊の儀を行っても問題は無いと思います。 通夜祭を行った後に時間を空け真夜中に遷霊の儀を行うのとは異なり、通夜祭と殯を同一視しながら、一連の流れで通夜祭に引き続き遷霊の儀を行うケースが増えているのは何故なのでしょうか。通夜祭と殯を同一視しせず、 帰幽報告祭を行った後は、遷霊祭と通夜祭の順序は地域に受け入れられやすい次第で行うべきだと思います。
現代における殯を考えるとき、皇室について見ておく必要があります。仮に今後皇室も火葬を取り入れた場合、安置場所は殯宮と称するけれども、殯といえるのでしょうか。
 通常の葬儀では、火葬し、帰家祭で葬儀を終え、その後十日祭・二十日祭・三十日祭・四十日祭を行い、五十日祭で納骨を行い、人によっては大々的にお別れ会を行う場合があることと比較すると、殯宮祗候(殯宮移御の儀・殯宮日供の儀(毎日行われる)・殯宮移御後一日祭の儀・殯宮拝礼の儀・殯宮二十日の儀・殯宮三十日の儀・殯宮四十日の儀・斂葬前殯宮拝礼の儀・斂葬当日殯宮祭の儀)大喪の礼と重なる部分が多くなるのではないでしょうか。

参照
 神道事典では、殯について、
「「あがりJ 「あらき」ともよむ。人 の死後、遺骸を正室や寺院または特別に設けられた所(喪屋・殯宮 〔あがりのみや・あらきのみや・ひんきゅう〕) に安置し、葬送するまでの期閒に行う儀礼をいう。今日でいうお通夜にあたる。古代では呼吸の停止をもって直ちに死とはみなされず、蘇生しないことを確認したあと、喪に入ったとされる。またその間は生前のように棺に朝夕供饌し、歌舞音曲や飲食などの遊びをして魂呼びを行った。それが中世以後になると、もっばら読経供養に変わるが、魂呼びの儀礼は今日なお慣習として残っているところもある。一方天皇の殯宮儀礼は 六世紀頃より唐の殯の影響を受けて、遊部の奉仕による儀礼とともに、誄(しのびごと)の奏上や諡を奉るなどの大陸にならった儀礼が行われるようになった。長期間にわたることもあり、天武天皇の殯の場合は二年余にわたったことが「 日本書紀」に記されている。 西岡和彦 」とあり、

 ウィキペディアでは、
「日本の古文書にみる殯
『古事記』、『日本書紀』では殯、『万葉集』では大殯とされ、貴人を殯にした記録や、それを連想させる記録が散見されるが、具体的な方法などは記録されていない。
『日本書紀』においては、一書の九でイザナギがイザナミの腐乱した遺骸を見た際「伊弉諾尊欲見其妹 乃到殯斂之處」の殯斂や天稚彦(あめわかひこ)の殯「便造喪屋而殯之」(一書の一「而於天作喪屋殯哭之」)、巻8の仲哀天皇の死後にその遺体を武内宿禰による海路に穴門を通って豊浦宮におけるもの「竊收天皇之屍 付武内宿禰 以從海路遷穴門 而殯于豐浦宮 爲无火殯斂无火殯斂 此謂褒那之阿餓利」があり、その後数代して欽明天皇(欽明天皇三十二年四月十五日(五百七十一年五月二十四日)死去)三十二年五月に河内古市に殯し、秋八月に新羅の未叱子失消が殯に哀悼した「五月 殯于河内古市 秋八月丙子朔 新羅遣弔使 未叱子失消等 奉哀於殯 是月 未叱子失消等罷 九月 葬于檜隈阪合陵」と記述される。なおこのときは一年に満たない殯である。

 平安中期の貴族藤原行成の日記『権記』寛弘元年(千四年)三月十三日の条に、村上天皇の皇子女の殯処に関する記述があり、「此くのごとき処、皆、荒る」とあるところから、村上天皇の御代後の平安中期頃に殯を行う対象者の範囲や規模が縮小したと推察される。

 隋書に記録された殯
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷倭國」には、死者は棺槨を以って斂(おさ)め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を作る。貴人は三年外に殯し、庶人は日を卜してうずむ。「死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服 貴人三年殯於外庶人卜日而 及葬置屍船上陸地牽之」とあり、また、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 高麗」(高句麗)には、死者は屋内に於て殯し、三年を経て、吉日を択(えら)んで葬る、父母夫の喪は3年服す「死者殯於屋内 經三年 擇吉日而葬 居父母及夫之喪 服皆三年 兄弟三月 初終哭泣 葬則鼓舞作樂以送之 埋訖 悉取死者生時服玩車馬置於墓側 會葬者爭取而去」とある。これらの記録から、倭国・高句麗とも、貴人は三年間殯にしたことがうかがえる。

なお、殯の終了後は棺を墳墓に埋葬した。長い殯の期間は大規模な墳墓の整備に必要だったとも考えられる。」とある。

 如在之儀については、
「平安時代には、生前の譲位が慣例となり、天皇が在位のまま崩じることは天下の凶事だった。後一条天皇の崩御の際は、「如在之儀」が行われた。

一一世紀前半以降、在位中の天皇が没しても、「如在之儀」を用いることにより、しばらくの間その死は隠蔽され、死後しばらくしてから皇位と無関係な貴族等と同じように、追善供養を充分に行うことのできる太上天皇の死として扱われるようになる。六・七世紀の大王の肉体の死が、直ちに大王の死として認められたのとは異なり、天皇は天皇という地位にある限り、その肉体の死を認められることがなくなったのである。この制度の成立によって、天皇はその地位が極端に重視されるようになり、地位の連続性が強調されるようになる。このような現象は、それまでの天皇が即自的に神聖性を確保していたため、死んでも天皇として扱われていたものが、個人的・人間的な要素が消滅して権威化し、仏教や三種の神器など外部から権威付けを行わなければならなくなったためにおきた現象と考えられる。」とあり、

 病体については、
山崎暗斎の逝去に際しては、門人大山為起・出雲路信直・梨木祐之等が死の穢れに触れていない状態でいるために「病体」とみなして、垂下霊社の霊璽を下御霊神社の末社猿田彦神社の相殿に移しています。また葬送の儀に携わると死の穢れに触れてしまうので本務社の奉仕のある門人は参列を断りました。この時代、みなしを使う反面、死の汚れを非常に忌み嫌っていたことが窺えます。

喪服について

  喪服について

 『日本書紀』や『隋書倭国伝』などを見ると古代の喪服が白かったということが分かります。しかし、718年に養老喪葬令が出され、「天皇は直系二親等以上の喪には『錫紵(しゃくじょ)』を着る」と定められます。当時の注釈書によると、「錫紵」とは「いわゆる墨染めの色」のことです。これは中国の『唐書』に「皇帝が喪服として『錫衰(しゃくさい)』を着る」と書いてあり、この中国の制を真似して定めたものと考えられます。ところが、唐でいう「錫」とは、灰汁処理した目の細かい麻布のことで、それは白い布のことなのですが、日本人はこれを金属のスズと解釈し、スズ色、つまり薄墨に染めてしまったようです。
 この「錫紵」の色は、平安時代になると貴族階級にも広まって、薄墨だった色合いも次第に濃くなっていきます。これはより黒い方が深い悲しみを表現すると考えられたからで、養老喪葬令の時、喪に重い軽いが定められ、平安になると着る色もこれにより決められたので、『源氏物語』でも、妻を亡くした光源氏が「自分が先に死んでいたら妻はもっと濃い色を着るのに、自分は妻の喪だから薄い色しか着られない」と嘆く場面があります。その後平安後期になると、一般的に黒が着られるようになりました。
 ところが、室町時代に白が復活し、江戸時代に水色が登場したりしますが、基本的には白が続いています。養老喪葬令以降、喪服を黒くしたのは上流階級だけで、庶民は一貫して白のままだったと思われます。昔は人の死を「穢れ(けがれ)」と考えていて、一度着用した喪服を処分していたようですが、白い布を黒く染めるには染料もいりますし、手間もかかります。そんな手間をかけたものを庶民が簡単に捨てたとは考えにくいし、現代よりもはるかに信心深い時代ですから、たたりや災いが起こるのではないかという恐れが強かったために、先祖代々受け継いできた伝統(葬式の形式)を変えるには、相当の勇気が必要だったはずです。
 養老の喪葬令で喪服が黒とされて以来、室町以降も格式や形式を重んじる宮中では「決まり事だから」という理由で頑なに黒のままを守り続け、それと同じように、庶民は貴族の「黒」におされながらも、形式を変えることへの恐れや経済的理由などから「白」という色を守り続けていたのだと言うことです。
 明治維新を機にヨーロッパの喪服を取り入れて黒になり、現代に至っています。
 弔辞でない場合も、宮中で偉い人の装束は「黒」ですが、一説にこの「黒」は、赤を何度も重ねて染め上げた色だと言われています。思うに、昔は、墨を何度も重ねて染め上げた「黒」と、赤を何度も重ねて染め上げた「黒」とが有り、それぞれ使い分けていたのではないでしょうか。そのために、現代でも宮中では、慶事においても鯨幕を使用しているのではないでしょうか。

 参考文献  増田美子『日本喪服史 古代篇──葬送儀礼と装い──』

 

 

禁忌について

   禁忌について

 現代における神社の在り方を考える上で清浄とそれに対応する「穢れ」・「禁忌」は避けて通ることの出来ない要素であるので少し述べておきます。

 古くから各共同体ごとに異なった「忌」の慣習は存在していただろうが、禁忌は律令が定められ、式を施行していく時代に確立していったものと思われる。
 そのために、「古事記」・「日本書紀」が編纂された時代にはまだ禁忌を具体的に取り入れることが出来なかったと思われる。伊奘諾尊が黄泉の国から戻り、阿波の水門と速吸名門の海峡の流れが急すぎて筑紫の日向の橘の小戸の檍原で着ているものを脱ぎ祓い、身を削ぐように洗い清め滌いだ事が祓詞として現代の修祓で唱えられるとはこの時代には考えられなかったのではないだろうか。祓詞における「穢れ」と「唐六典」などにより大陸の影響を受けた「六色の禁忌」とは意味が全く違うと考えるべきである。「穢れ」は禊祓を行うことによって全て祓へ清められる方が神話の流れ上良かったのであろう。

 「穢れ」以外に祓詞に出てくる「禊祓」「禍事・罪」についても少し触れておく。
「諸々の禍事・罪・穢れ」があって禊ぎ祓うのであるが、「禍事」とは畏れるべき悪しき事(自然の猛威・神々の怒り・死・病等)であり、罪とはその畏れるべき悪しき事を呼び起こす原因または不吉な禁忌を破る行為で、大祓の「天津罪」「国津罪」「許々太久罪」を代表的な罪だとすれば、それは①神聖を穢す罪、祭りを穢す罪、②農耕社会秩序を乱す罪、③命あるもの、命を終えたものを傷め損なう罪、④人倫を犯す罪、⑤呪いをなす罪、⑥特別な穢れ災いを受ける罪などを挙げる事が出来る。
 それを取り除くために行う①祓へとは着衣を全て脱ぎ祓うことでありそれは、体内等に停滞している物を取り除くことを意味し、②禊とは清らかな水で身を削ぐように滌(濯)ぎ、本来の霊魂を体内に注ぎ、元の状態に戻ることを意味していたが、平安時代には大祓の参加者に清浄を求めており、清らかな上にも更なる清浄を期することを目的とした儀式になったと言える。祓への方法としては「爪等身体の一部を含む財物没収罪を購う儀式(贖いの法)」「撫物・人形・解縄・茅輪・祓麻・祓刀・木綿・布・麻布・幣・大麻・切麻・散米・豆撒き・餅撒きなど水に流す物や祓い清める物や差し出す物を用いた儀式(触浄と名付けるのが適当と思われる)」等が見られる。また、更なる清浄を求める「禊祓」で取り除かれる「穢れ」に、死穢・産穢・月事は含まれていなかったし、天武天皇十年七月丁酉の条に「天下に令して悉に大解除せしむ。此の時に当たりて、国造等、各祓い柱ぬひ一口を出して解除す」とあり、大祓に際し人柱を用いるということは死そのものを「罪・穢れ」と考えていたとは思えない。

 しかし、律令時代になると、神祇令第十一条の祭祀奉仕者の禁忌規定にあるように神事期間の前後においては、喪を弔い、病を問い、宍を食うことを得ざれ、亦刑殺を判らざれ、罪人を決罰せざれ、音楽を作さざれ、穢悪の事に預からざれという「六色の禁忌」が基本となり、次のように穢限などが定められていった。

延喜臨時祭式穢忌条・改葬傷胎条 延喜式完成 醍醐天皇延長五年(九二七) 延喜式施行 冷泉天皇康保四年(九六七) 穢    限

一 人の亡骸(人死)                     三十日
  改   葬
  胎児四ヶ月以上の流産(傷胎)

二 人の出産                          七日
  胎児三ヶ月以下の流産(傷胎)

三 六畜の死体(六畜死) 牛・馬・羊・猪・犬・鹿          五日(「西宮記」では七日)

四 六畜の出産                           三日
  六畜の肉を食す(宍を喫む)

弘仁式 嵯峨天皇弘仁十一年(八二〇)には次のものなどがある。

問疾(病人見舞い) 三日(延喜式で削除)
失火 神事の時に当たる場合は七日間を忌む

 また『蜻蛉日記』・『古今著聞集』などに「神事及び吉事一般に関与することなく、自宅や寺院などの便宜の場所に引き寵もって、神宮神社に参詣することは勿論、公務公事に就くことをも憚った。」とあり、死穢(亡骸のケガレ)の場合の忌み方について見受けられる。

更に、延喜臨時祭式の触穢条を見ると、「甲処にケガレが発生し、乙人がそこへ行き着座してきた場合、乙人と乙人と共に居る人は皆“触穢”したものと見なす。更に丙人が乙人の処へ行けば、丙人のみ穢れたと判断する。」とか、「甲処で触穢した乙人が丙処へ行き、着座した場合は、丙処に居る人は皆穢れるが、そこへ来た丁人は穢れない。」など穢れの伝染についても示されている。律令の頃からこの触穢と共に続柄による忌服の期間も共存している。こういった状況が明治時代になるまで続いていたと思われる。

 明治時代に入ると、明治五年二月二十五日の太政官第五十六号布告に「自今産穢不及憚侯事」として産穢は遠慮するには及ばないとし、明治五年三月十日の触穢禁忌忌服方法では「死人ヲ取扱者ハ三日ノ後沐浴参宮ノ事但葬式ニ随ヒ及死者同座ノ者ハ沐浴致候ヘハ翌日ヨリ参宮不苦候事」として、三日後沐浴して参宮して良い。葬儀に同席した者は沐浴すれば翌日より参宮して良いとし、「墓参ノ者沐浴ノ後参宮不苦侯事」として墓参りした者は沐浴して参宮して良いこととした。また、明治五年六月十三日の太政官第百七十七号布告では「死葬二預リシ者神社参詣ノ件神社参詣ノ輩自今死葬ニ預リ侯モノト雖モ当日ノミ可相憚事」として産穢に続き死穢の穢限三十日であった古制を改め、一日と減じた。更に、明治六年二月三十日の太政官第六十一号布告では「自今混穢ノ制被廃侯事」として触穢の制を全廃した。そして、明治七年十月十七日の太政官第百八号布告で服忌令京家の制を廃し武家の制を用いるようにした。つまり、続柄による忌服のみを残そうとしたのである。

 ただ、神宮においては触穢を残し次のように定めている。
神宮法規 明治三十五年
墓参会葬ニ付遠慮ノ件 死体ニ触レシ者         五日
埋葬ニ立チ会イシ者               二日
墓参会葬及葬家ニ立入リシ者           当日
神宮規定
勤務を遠慮する場合 死体に触りたとき        三日
墓参、会葬および葬家に立ち入ったとき     当日

 そもそも「忌む」とは、縁起が悪いとか汚いものとして避けると言う意味があり、亡骸や土葬された者や出産時や月経時を不浄とイメージしてきていたことが窺える。そのイメージを明治政府は払拭しようとしたが律令制度からの慣習を壊すことが出来きらなかったように感じられる。

 現代においては、土葬の時代にイメージされていた亡骸の穢れも土葬された亡骸からの白骨(五体不具)の穢れも、火葬によって不浄のイメージは薄らいできているようであり、会葬に当たっても現在は死臭等も感じさせないように葬祭業者が配慮しており、触穢は意義を失って来ている。産穢についても病院で清潔に行われており、月経についても、CM等で見受けるように清潔に保つ用品が開発されて不浄のイメージは無くなってきている。また、葬儀の後すぐに職場に復帰して日常生活をしている現代の状況を見ていると、一定期間を設けて引き籠もる「忌服」は意味を失っている。また、葬儀の場が穢れていると考えると、家には、屋船皇神等がおり、水神様や竈神様のお坐します台所で、水や米を始め様々な霊が宿っているものを調理したり、亡骸の前に供えたりする行為は神々に対して不敬に当たるのではないだろうか。埋葬にしても大地主大神に対して不敬に当たるのではないだろうか。逆に現世から幽界に帰る神聖なものとして扱うべきであり、ただ現世に残った人々の別れに対する感情が悲しみを生み出しているのであって死も葬儀も不浄なものではない。「忍び手」も故人に対する思いのため音をたてることの出来ない心情の表れであって、穢れとは無関係なものとすべきであろう。不浄でなければ葬儀において修祓をすることの是非を考える必要もない。私たちは死に対しても埋葬に対しても穢れと考える慣習を無くす努力をすべきではないだろうか。加えて、神事等に関してのみ「忌」の慣習が幅を利かせていることは不自然としか言いようがない。これも是正するよう取り組むべきだと思う。

 魏志倭人伝に「停喪十余日」とあるがこれは通夜のことなのか、忌服のことなのか、また、魏志倭人伝が示す倭国がどの国を指しているのか。戦国時代を始め、多くの死者や傷病人を出した時代でも、「忌服令」は守られていたのだろうか。神事に携わる神職の忌の期間が一般より短い事は本末転倒ではないだろうか。穢れは不浄と言うイメージだけでなく、日常とは異なる心の状態・ケガレの対象に感情が揺れ動き、正常に日常を過ごせない状態をも含み「気枯れ」・「異枯れ」と解釈することが正しいのか、また、不意に思いがけず、はからずも受ける傷と言う意味で「怪我れ」と解釈することが正しいのか、等々素朴な疑問数え切れないほどあり、「忌み」の有効性を決定付けることは難しいのではないだろうか。

 現代社会において、禊祓の儀式によって刑法上の罪が赦されるわけではないし、目の前のきたなく汚れた状態が清潔になるわけでもない。現代の禊祓は清らかな上にも更なる清浄を期することを目的とした「禊祓」であると考えることが自然である。禊祓の対象としての「穢れ」があるから禊祓が必要であり、「穢れ」があればこそ禊祓は機能的に存在し、また、存在価値が認められるのである。だとすれば、禊祓で清められる「穢れ」のみ「穢れ」とすべきである。出来れば、禊祓を、塵芥埃が溜まるのと同様に、人の心にも、鬱積停滞するものを穢れとみなし、罪についても大祓の「天津罪」「国津罪」「許々太久罪」ではなく、知らず知らずのうちに犯した罪とみなし、それらを祓へ清めることを意味していると考え、仮に「罪・穢れ」が無い人についても清らかな上にも更なる清浄を期することを目的としたもので常に行うべきものと捉えるべきであろう。自然発生的現象であり、その事態が鎮まるまで忌み慎み、その後禊ぎによって浄化されると言う慣習になっている存在も、死も葬儀もそれらによる「異枯れ」等々も「穢れ」とは考えず、「汚れ」の状態を排除して清浄な空間を創り、禊祓の効力によって更にその場所を神聖化すると考えていかなければ禊祓の存在そのものが意義を失うことになるであろう。

 

  服 忌 表

死去された方                 忌              服

父母      実父母            五十日               十三ヶ月
         養父母           五十日               十三ヶ月

         継父・嫡母・継母       十日                三十日
         夫の父母          三十日                  百五十日

 祖父母     父方 祖父母              三十日                百五十日
         母方 祖父母          二十日                 九十日 

 曾祖父母   父方 曾祖父母             二十日                  九十日
        母方 曾祖父母        な し                 な し
高祖父母   父方 高祖父母              十日                    三十日

       母方 高祖父母        な し                 な し
夫                     三十日                 十三ヶ月
妻                        二十日                       九十日

子      家を継承する子        二十日                    九十日
       その他の子女             十日                    三十日

孫      家を継承する孫         十日                    三十日
        その他の孫            三日                      七日

曾孫・玄孫                 三日                      七日

兄弟姉妹   兄弟姉妹               二十日                     九十日
        異父 兄弟姉妹         十日                     三十日                         

伯叔父母   父方 伯叔父母              二十日                九十日
        母方 伯叔父母        十日                      三十日

甥・姪    兄弟姉妹の子             三日                  七日
       異父 兄弟姉妹の子       二日                     四日

従兄弟姉妹   父の兄弟           三日                   七日
           母の兄弟姉妹の子    三日                   七日

※ 忌の期間に該当する方は、なるべく神社への御参拝・外出・派手な事等をご遠慮下さい。
  服の期間に該当する方は、故人のことを心に留めておられても、御参拝には何ら差し支えございません。

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