
歴 史
一 考古学と神話
二 古代社会の変化
一 古代前期における変化 二 仏教の伝来
三 仏と神の両立 四 武士の台頭と伊勢神道の成立
三 中世における変化
一 鎌倉時代初期 二 末法思想 三 神=心合一 四 和光同塵
五 宮座 六 正統 七 吉田神道(元本宗源神道)
八 戦国時代から徳川幕府へ(在地領主制からお国替えへ)
四 近世における変化
一 江戸期の神道 二 近世の国学(復古神道)
三 本居宣長と天照大神 四 神基習合
五 明治維新から終戦まで
一 神仏分離 二 神祇官の再興 三 神社合祀令 四 戦時下
六 現代(従来環境の崩壊)
一 クニの変化
一 日本国憲法 二 外圧に従う 三 権利と義務(自由の履き違え)
二 家庭の変化
三 共同体の変化
一 一次産業の崩壊 二 会社一家の崩壊 三 過疎過密と少子化
七 まとめ
一 考古学と神話
一 考古学と神話
人類の起源については、多地域進化説もあるが、アフリカ起源説が定説であり、およそ六百万年前にヒトがチンパンジーの仲間から枝分かれし、これまでに発見された二百万年以上前の人類化石は全てアフリカで発見されている。このアフリカで誕生した人類は、長期に渡りアフリカで過ごし、百八十万年前に一部(北京原人やネアンデルタール人など)がユーラシア大陸に移動するが、現代人の先祖となるホモ=サピエンスはおよし二十万年前に誕生し、十六万年前に移動を始めたと言われている。それでもアフリカに留まり続けたのが、黒人の先祖であるネグロイドである。移動した人類は、中近東当たりで東西に分かれ、西に移動したのが白人の先祖であるコーカソイドで、東に移動したのが黄色人種の先祖であるモンゴロイドである。そのモンゴロイドの移動にヒマラヤ山脈が立ちふさがり、北への移動と南への移動に分かれる。南への移動は、五万年ぐらい前からインドシナ半島に住み始め、北への移動は、三万年前からシベリアに住み始めた。それぞれの集団は更に移動を続け、南方面に移動した集団は、更に南下してオーストラロイドとも呼ばれているアボリジニの祖先となり、北に進んだ一団は東アジア一帯に生活の場を拡げていった。シベリアに移動した集団も東アジアで南回りの集団と出会うことになる。この一団は更に一万五千年前にベーリング海峡を渡り北アメリカ大陸・南アメリカ大陸に移動していった。
東アジア一帯に生活の場を拡げていった集団の中で、特に大陸の東の端に住み着いた集団が、日本人の遠い祖先と考えられる。その代表例として、人骨化石が発見されているのが、宮古島のピンザアブ洞人(二万六千年前)、沖縄県の港川人(一万八千年前)、静岡県の浜北人(一万四千年前)である。これらは南から移動した集団であるが、また一方で北アジアで見られる細石刃を使っていたことが北海道の遺跡で解り、北からの移動もあったように思われるが、それらは寒冷地に適応した身体的特徴を有していないので、これもシベリアから南下した集団ではなく、南回りの集団が入ってきたと考えられる。これらの集団が一万二千年前に定住し縄文時代が始まる。
縄文時代の特徴は、数多く出土した土器にある。一万二千年前にこれほどの土器を出土している地域は他にないだろう。しかし、日本列島は平野が少なく、落葉樹の森林が大半を占め、四方を海に囲まれ、その海に流れ込む川により多くの魚介類が育ち、落葉樹林からは豊かな木の実を得ることができ、食には恵まれていたのであろう。その恵まれたことと平野が少ないことによって、水稲農業は不向きであったと考えられる。そのために、世界四大文明の黄河文明の近くに位置しながら、農業技術が発達しなかったのであろう。ただ、以前言われていたように弥生時代になってから農業が始まったのではない。岡山県の朝寝鼻貝塚から約六千年前のプラントオパールが出土し、縄文時代前期の稲であることが判明した。更に五千年から四千年前の姫笹原遺跡(縄文時代中期)、四千年から三千年前の南溝手遺跡からも稲のプラントオパールが出土している。このことから稲作は縄文時代から行われていたが、技術的に発達していなかったと考えるべきである。
四千年前気温が低下し、北方のモンゴロイドがかなり南下しており、弥生時代が始まる約二千三百年前は、大陸では春秋戦国時代で戦火に追われるなどの理由で、中国北部から朝鮮半島を経て日本列島に大挙してやってきたものと考えられる。南方から海を渡った集団もあっただろう。これらの集団が、高度な水稲技術をもたらし、一挙に生産能力が高まったと考えられる。
ここで、縄文人、そして日本列島に逐次渡来した民族を基に、私の思いのままに、日本神話の一部分を解釈してみたいと思う。
縄文人に近い南方系の民族には日神崇拝する神話が多く、この頃の黄河流域では小麦栽培が主流で水稲栽培は揚子江流域が中心であり、水稲技術の伝播はこの南方系からのものと思える。また、南方系の民族は海人(アマ)族とも言われており、この「アマ」が日神崇拝と融合し、「天(アマ、アメ)」の付く神々になっていったのではないだろうか。このアマ族は瀬戸内海を利用して各種のアマ族が日本全土に急速に分布し始めたと考えられはしないだろうか。そしてこのことが「国生み」伝説になったと思える。
一方、朝鮮半島を経由して渡来してきた民族は、北方シャーマニズム文化圏の影響が強く、山上や高い木に祖先神の中でも英雄的な神が降臨すると言う信仰があり、山人(ヤマ)族と言われる集団で、剣、矛などの青銅器・鉄器を使い戦に優れていたのではないだろうか。このヤマ族も各種あったであろう。その中で、在来の民族・アマ族・ヤマ族そして派生的集団(出雲族等)等が離合集散を繰り返し、漢の時代日本列島で勢力を誇ったヤマ族の倭奴(ワノナ・ヤマト)の首長が王と認められたのではないだろうか。
更に時代が降り魏の時代、ヤマ族の中のヤマタイ国が勢力を拡大し、倭奴国は九州南部に追いやられ、その地で出会ったアマ族と盟友となり、態勢を整え、北上したと思える。「天孫降臨」伝説の司令神としての「高皇産霊尊(高木神)」が倭奴国の首長であり、「天照大神(大日霎)」がそのアマ族の首長であったのだろう。両者の子の間に誕生したニニギ尊を天降したことと、「海幸・山幸」伝説でニニギ尊の子の彦火火出見尊(ホオリ尊・山幸彦)が海神の助言と「潮満玉・潮干玉」によって兄火酢芹命(ホデリ命・海幸彦)を降伏させたこと、更に海神の娘である豊玉姫命との孫が神武天皇であることから理解できるのではないだろうか。アマ族の神宝である鏡(八咫鏡)と玉(八坂瓊曲玉)、ヤマ族の神宝である剣(草薙剣)を正統なる首長の象徴(しるし)として用いたのもその流れであろう。
融合し、態勢を整えた新ヤマト国は、出雲の国にも使者を送り、ヤマト国と合力するように求めた。このことが「国譲り」伝説となったのであろう。
この後、ヤマタイ国を始めとする各地の勢力を制圧し、崇神天皇が御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)となられた御代におおよその統一がなされたのであろう。
日本の首長としての正統性を傘下の集団や対外的に広くシロシメスために、アマ族が行っていた「一定期間籠もりて潔斎をし、一段神格化した他者とは違う存在として甦り戻ってくる」習わしを「天の岩戸」伝説として用い、ヤマ族の「山上や高い木に祖先神の中でも英雄的な神が降臨する」と言う信仰を基に天照大神の神勅「御鏡を謹祀すべき神勅・斎庭の稲穂の神勅・天壌無窮の神勅」を重ねて、日本中に鏡を祀る慣習を恒常化させ、稲作の源流と豊かな稔りを自分たちの祖先の功であるように信じ込ませ、古事記・日本書紀を編纂するとき天武天皇の跡を継いで天下を治める持統天皇にとって自分の言葉が天武天皇の意思であると示すことと、皇祖・皇宗に対する奉仕者としての天皇の在り方を示すために、高皇産霊尊(高木神)の詔を中執り持つ天照大神の姿を表現している伝説が「葦原中国の平定・天孫降臨」であり、更に「天の岩戸」伝説で岩戸に隠れたことと同様にニニギ尊を真床追衾にくるむことにより、より高貴な霊力を有する存在としてまた天照大神の甦りとして天皇が存在していることを印象づけるための伝説がこれであろう。そしてそれを模した「践祚・大嘗祭」を行うことにより天皇のご即位に正統を認めさせたのであろう。
日本人の源流に心が傾くのは日本人として当然のことであるし、現代日本人の遺伝子情報に占める割合が混血・融合を多く行ったことにより縄文人系情報が三割、弥生人系情報が七割となっていることから自分の思考がその時々で何系の遺伝子が働いているのかを考えながら先祖と対話をしていきたいものである。
それにも拘わらず、「古事記」も「日本書紀」も見たことのない日本人が増えていることは嘆かわしいことである。どの様な方法でも良いから神話を様々に解釈し、多くの人々で批評し合える状況が今必要だと思う。
二 古代社会の変化 一 古代前期における変化
二 古代社会の変化
一 古代前期における変化
日本の社会は、縄文時代後期頃からの水稲農業を背景に、ムラという共同体による生活を連綿と続けてきている。神道自体(仏教伝来までは神道という呼び名や意識は無かったと思うが)も狩猟時代から農業共同体社会に移行する過程の中で原始宗教から大きく変化している。第一に、くに「郷土」に定着しなければならなくなったこと、そのために近隣との境界をめぐるトラブルから境域を維持しなければならなくなったこと、第二に、狩猟時代と比較して多くの所属人員を抱えることになりながら、一体感を保ち共同社会を維持しなければならなくなったことによって、アニミズムとその時々の獲物を得ることを祈り、それが出来たときの感謝をすることが根本であった原始宗教が、その後の共同体社会では、原始宗教の上に共同体を維持していくための機能が加味されていったのである。近隣他地域との係わり合いの中で、共同体意識の再生産を行う必要に迫られたために、そのシステムとして「共同体だけのカミを戴くこと」を発想したのであろう。
多数の共同体の中に、地理的条件、その年々の豊作不作、大陸からの新技術の導入などによって格差が生じ吸収拡大が行われ、各地に国を造っていく中で、各共同体の中で確立されてきた神が、国という単位で一つの神に集約されていくことが一つの方向性としてあるのだが、日本の場合は、各共同体の神を認め、神の系譜を設けて各共同体が一つの系統に遡れることにすることを進めていったのである。
ただ、その国造りの中で神々の結び付きを正統化する意味からも、神々の権威を維持するためにも必要とされた形態が、三国志の魏書の東夷伝の倭人の条を信じるならば、邪馬台国の卑弥呼のようにシャーマニズム的なものであったのであろう。天神地祇と言っていいのか霊と言っていいのか分からないが、それらと交流ができて他の者とは全く違った神秘的な力を持った存在が必要とされたのだと思う。
古墳時代になると、支配するものと支配されるものの身分がはっきりし、支配者は権力を誇示することを求め、被支配者は古墳の造営等にかかわることを余儀なくされ、常に技術・慣習・伝統に触れて、おそらく思考は保守的であったものと思われる。
神の有りようについては、アニミズム的な祈り、収穫への祈り、豊作豊猟への感謝が本流にあった(神と共に生き、あらゆることを太占に占へて神意に叶うかどうか伺うことを基本としていた。)ことは言わずもがなであるが、被支配者を統率するための道具という側面が表出してきたと考えて当然であろう。その一つとして、支配する者は自分の正統性を立証するために、自らを神の正統な流れを汲む者であることを広く告知する(知ろ食めす)ことも行っていたであろう。それは記紀を用いた様々な教訓・儀式であり、それに価値を持たす為の祖先崇拝(当然昔から行われていたであろうが更に権威付けをしたのである)を大きな柱にしていったと思われる。
それ以後仏教伝来までの神はその延長線上に在り、その存在意義は一方で、大共同体を①一体化すること(生活にとって・支配者にとって必要であったこと)、その反面で②閉鎖性、③生命力・生産性の甦り(祈年と感謝)が基本にあったであろう。また他方でシャーマン・占者の言葉・占いを大切にしていたこと(蘇我大臣馬子宿禰が病気になったとき、卜者に占わせ、敏達天皇はその言葉に従い、稲目が崇めていた仏を祀らせたことなど、「日本書紀」に幾度も出ている。)であろう。
二 古代社会の変化 二 仏教の伝来
2012-01-24 20:07:54 | 日記・エッセイ・コラム
二 仏教の伝来
仏教は六世紀欽明天皇の頃(実際には帰化人等の関係もあってもっと前から日本に入っていたと考える方が自然だと思われるが)に伝来した。その中心が大臣の蘇我稲目である。
日本書紀によると、欽明天皇は、百済の聖明王から釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻献上された。その時天皇は、仏を広く礼拝することの功徳について使者を通じて聞き、群臣に対し「祀るべきかどうか。」を尋ねられたそうで、開明派の蘇我稲目は「西の国の諸国は皆礼拝しています。豊秋の日本だけがそれに背くべきでしょうか。」と、国粋派の物部大連尾輿・中臣連鎌子は「わが帝の天下に王としておいでになるのは、常に天地社稷の百八十神を春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。今初めて蕃神(仏)を拝むことになると、恐らく国つ神の怒りをうけることになるでしょう。」と応えられ、天皇は、「それでは願人の稲目宿禰に授けて、試しに礼拝させてみよう。」と言われた。稲目は、喜んで小墾田の家に安置し、向原の家を清めて寺としたが、この後国に疫病がはやり、若死にする者が多く続き、物部大連尾輿・中臣連鎌子は「あのとき、臣の意見を用いられなくて、この病死を招きました。今もとに返されたら、きっとよいことがあるでしょう。仏を早く投げ捨てて、後の福を願うべきです。」と進言し、天皇は、「申すようにせよ。」と言われ、役人はそれにより、仏像を難波の堀江に流し捨て、寺に火をつけ、余すことなく焼いた。
敏達天皇の時にも同様なことが起こった。大臣の蘇我馬子は鹿深臣から弥勒菩薩の石像一体を佐伯連から仏像一体を請い受け、仏法の師として高麗の人恵便を選び、善信尼(嶋)禅蔵尼(豊女)恵善尼(石女)三人を出家させ、ひとり仏法に帰依した。その後石川の家に仏殿を造った頃から仏法は広まり始めた。この頃また、疫病が流行り、物部弓削守屋大連・中臣勝海大夫は「どうして私どもの申し上げたことをお用いにならないのですか。欽明天皇より陛下の代に至るまで、疫病が流行し、国民も死に絶えそうなのは、ひとえに蘇我氏が仏法を広めたことによるものに相違ありませぬ」と申し上げ、天皇は詔して、「これは明白である。早速仏法をやめよ。」と言われた。物部弓削守屋大連は、自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、その塔を切り倒させ火をつけて焼き、同時に仏像と仏殿も焼いた。そして、焼け残った仏像を集めて、鞋波の堀江に捨てさせ、更に尼たちを鞭うつ刑に処した。その後、天皇と物部弓削守屋大連が疱瘡に冒され、疱瘡で死ぬ者が国に満ちた。国民はひそかに「これは仏像を焼いた罪だろう。」と語り合った。
馬子宿爾は、「私の病気が重く、今に至るもなおりません。仏の力を蒙らなくては、治ることは難しいでしょう。」と天皇に申し上げたら、「お前一人で仏法を行いなさい。他の人にはさせてはならぬ。」と言われ、三人の尼も返し渡された。馬子宿禰はこれを受けて喜び感歎し、三人の尼を拝み、新しく寺院を造り、仏像を迎え入れ供養した。
用明天皇は仏法を信じ、神道を尊ばれたとあり、文献として初めて「神道」の文字が出てきた。天皇が病んだ時、仏・法・僧の三宝に帰依したい旨を示すと守屋大連と中臣勝海連は「国つ神に背いて他国の神を敬うのか。このようなことは今までに聞いたことがない。」と言い、馬子大臣は「詔に従って協力すべきだ。」と言い、穴穂部皇子が豊国法師をつれ内裏に入られた。これにより両者は衝突し中臣勝海連が殺された。そして、崇峻天皇の時、馬子大臣は守屋大連を滅ぼそうと謀り、厩戸皇子等と軍勢を率いたが、守屋大連の軍勢は勢いが強く三度退却し、このままでは負けるかも知れないと感じ、厩戸皇子は護世四王に、守屋大連は諸天王・大神王に「勝たせて下さったらそれぞれのために寺塔を建てる。」と誓いを立て願を掛けた。守屋大連等は殺され、乱は収まり四天王寺・法興寺等を誓願通りに建てた。
霊の存在を大前提としている時代に「国つ神の怒りを受けるであろう」とまで言われても仏教を取り入れようとした蘇我氏の意図するところは何だったのだろうか。第一には、素直に仏法の魅力に取り憑かれ信仰心を深めたと考えることも出来るが、馬子大臣の出家後の悪逆の行為は信仰心を感じさせない。第二には、蘇我氏は三韓征伐で貢献のあった武内宿禰の子孫とされているが、石河宿禰の後から高麗までの実体が不明瞭で百済からの帰化人との説が有り、朝鮮半島の情勢についても過敏で、本拠地についても諸説有り、稲目の様子は、大伴氏、葛城氏、物部氏と比較して新興勢力のような存在であったように思われる。また、稲目の頃に急速に勢力を増してきたのは積極的に皇族と姻戚関係を結んだためで、その動きの速さは古豪とは思えないこともその理由である。概略を述べると、欽明天皇の第二と第三の妃は稲目の娘で姉の堅塩媛の息子が用明天皇で娘の豊御食炊屋姫が異母兄の敏達天皇の妃となり、後の推古天皇になった。妹の小姉君の息子が崇峻天皇で娘の穴穂部間人皇女は用明天皇との間に聖徳太子を産んだことになっているのである。新興勢力が権威者に近づくために興味をそそるものを提供することはよくあることだと思う。この時期、仏像も経典も思想も魅力的であり、蘇我氏にとっては仏教が格好の材料だったのではないか。第三には当時日本近隣諸国は仏教全盛で流入してくる文化も仏教色が濃く、諸国との交流には仏教を軸に展開した方が有効と考え、また、渡来人や仏教を崇敬したい人たちに対する信教の保護の必要性を感覚的に掴んでいたためと思える。蘇我氏が武内宿禰の子孫であったとしても、百済からの帰化人であったとしても、他の群臣よりも国際情報収集に長じていたことは言うまでもないであろう。
ただ、考えなければならないのは天皇の心である。仏教を広めること、更に帰依にまでいたることが、天皇自らの存在の裏付けを否定する結果になる可能性(大共同体を一体化することや祖先崇拝を壊す可能性)があったはずである。天皇にとっても従来の神にとっても前代未聞の危機だったはずである。大航海時代以降キリスト教によつて多くの国がそれぞれの土着の宗教を失ってきたことを見ても分かるだろう。しかし、インターナショナルな新興宗教を受け入れることについて、国粋派の群臣が諫めても、試しに礼拝させてみたり、自ら「帰依したい。」と言い出すなど、危機感が感じられない。これは、その時期、天皇を中心とする組織が天皇の親政ではなく、群臣の意見による合議制であり、その組織が確固たるものであったからで、仏教を広めても天皇の存在が否定されることはないという自信があったのだと思う。
それに反して、国粋派の群臣にとっては、一大事に感じられた。現代においても日本の国体を真摯に考えている人たちには、天皇がすべき行為ではないと感じられるはずである。しかし、歴史は仏教興隆をすすめる時代に入っていくのである。
二 古代社会の変化 三 仏と神の両立
三 仏と神の両立
推古天皇と厩戸皇子は蘇我氏との関係からも、また、十七条の憲法の二条「篤く三宝を敬え、三宝とは仏・法・僧なり」からも仏教を国家的な宗教にしていったことは明らかである。しかし、「古来、皇祖の天皇たちが、世を治めたもうに、つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。群臣は心を尽くしてよく神祇を拝するように。」と言われ、皇子と大臣は百寮を率いて神祇を祀り拝された。一説には、「十七条の憲法に神についての規定が何も無いのは、神は皇子を始めそれぞれの先祖のことなので、不滅であることは絶対のことであり、大和の国の何人も疎かに出来るはずが無いことは明白で憲法に取り上げることではなかった。逆に、随帝国の統一に危機感を抱き政治の安定と強化を図る目的で仏教をすすめ、その他にも儒教・法家・道家と言った文化思想哲学を取り入れようとした。」とするものがあり、それは素直に当時の状況を捉えたものであるように思う。
後の孝徳天皇は仏法を尊んで神道を軽んじられたとされているが、天武天皇の時代になると祈年祭を始め広瀬竜田の神祭り、大祓、大嘗祭等々の祭祀が行われたことが頻繁に出てきている。このことは、天皇が帰依しても、仏教が隆盛しても、祭祀は全く途切れることなく連綿と続けられていることを示している。それどころか仏教が定着するに伴い、今までの神祇制度を「神道」として国家的祭祀・信仰として自覚的に意識されてきた。そしてそれは、「飛鳥浄御原令」(六八九)「大宝令」(七〇一)「養老令」(七一八)の神祇令により法的に整備・確立されていくことになる。
神仏習合の例として、気比神宮にまつわる伝説に『奈良時代、藤原不比等の夢に気比神宮の祭神(伊奢沙別命)が現れて「神の身に自分は生まれてしまったけれども、仏法を聞いて悟りを開きたい。是非神社の横にお寺を造ってほしい」とのお告げがあり、藤原不比等は気比神宮の横に気比神宮寺を造った。』というのがある。これが本地垂迹の初例であろう。
本地垂迹説では、無始無終で絶対的・理念的な存在である仏(ホトケ)を「本地」と言い、衆生を救うために歴史的・現実的に具体的な形で現れることを「垂迹」という。それが真理であれば、日本においても当然起こるべきで、日本の在来の神はすべて仏が垂迹した姿である。故に、神と仏は同じであるというのである。そのようなことで、まず、神は仏法によって悟りを開き、菩薩になることができ、それが宇佐八幡大菩薩などの八幡宮に代表されるものである。更に時代が進むと神と仏は同じもの(神は仏が仮の姿で現れたもの)となっていった。これが熊野権現・東照権現などの権現である。その上、神の中には仏を守る法相擁護の神になったものもある。その例として、藤原氏の氏神である春日の神の逸話「春日権現験記」などがある。現代巷では、尊く偉い死者を神と祀り、一般の近親者を仏ということがよくある。なんとなく本地垂迹が逆転したような思いになる。
律令制度のもと労役のために多くの人々が動員されたが、期限が過ぎても苦しい生活が待っている故郷に帰ろうとせず、都やその周辺に留まり流民化していった。行基ら一部の僧侶は奇跡や呪術を駆使して民衆布教を行い、流民救済を行った。朝廷はこれを邪教として弾圧していったが、民衆の支持を得ており、聖武天皇は、東大寺大仏建立にその力を利用した。この聖武天皇は大変仏教を重んじ大切にしていたが、だからといって神を粗末にしていたわけでもない。東大寺建立のために左大臣橘諸兄を伊勢神宮に遣わし、建立の御神許を請いに行かせている。また、宇佐八幡にも勅使を出して託宣を得さしている。このことは、神を上位に置いていることを示している。
称徳天皇の時代、僧侶道鏡が政治を行うようになり、天皇は「仏法を護るのが神である。」と詔され、皇室守護神も仏教政治の影響を受けるようになる。しかし、宝亀元年(七七〇)に天皇崩御と共に道鏡が失脚し、反動として伊勢の大神宮寺が神宮の遠方に移されるなど、仏教重視から神祇尊重へと移行していったと思える。この後、平安時代に入っていくと「神道」も「仏教」も新たな展開をしていく。
この時期学問として、また哲学としての仏教が、それまで行っていなかった加持祈祷を盛んに行うようになってきた。その代表例が天台宗と真言宗と言えよう。どちらも護摩を焚くことを常として教義に関する研究の充実をあまりしていなかったようである。その天台宗・真言宗が神仏混淆の理論を発芽させていくこととなる。
最澄が帰朝(八〇五)して比叡山にて天台宗を開いたとき、唐の天台宗国清寺に祀られている山王祠(釈迦が法華経を説いたという印度の霊鷲山山王説もある。)を手本に大山咋神を祀る日吉神社を山王権現としたと言われている。また、その弟子円珍の時から法相擁護の神として祀られたと言う説もある。
翌年空海が帰朝(八〇六)し、高野山に真言宗を開いたとき、丹生明神の託宣を受けて鎮守社として丹生都比売社を祀ったとされる。これらが後に山王一実神道・両部神道になっていく。(両部神道の名は、密教において、宇宙は大日如来の顕現で、それを中心に諸仏・諸菩薩・諸明王や守護神・鬼神を密教の二大法門である金剛界と胎蔵界に分け、配していることになっており、この金剛と胎蔵の両部から付けたものである。)
二 古代社会の変化 四 武士の台頭と伊勢神道の成立
四 武士の台頭と伊勢神道の成立
平安中期になると、私領たる荘園が増加し国家財政の基盤が崩壊していった。一方で地方の在地領主となった者は、自衛策を立て、武力を養っていった。このことは中央における朝儀・神事等をわずかに面目を保たせる程度にしてしまった。しかし、太政官符に「国の大事、祭祀より先はなし」として祭祀の厳修を戒め、延喜臨時祭式等に「凡そ諸国の神社は、破るるに随いて修理せよ」と規定し、神社を守らなければならないという気持ちが窺える。
武士について言えば、平忠常の反乱(一〇二八)を平定した源頼信が晩年(一〇四六)誉田陵の八幡祠に「告文」を納め祈願をしたとき、武門の野望を吐露したと言われている。このことが清和源氏の氏神として八幡神を仰ぎ崇拝する伝統の始まりと言われている。この頃から武士の勢力が伸長していった。一方で、厳しい租税に苦しんでいた農民たちが自分たちで開墾した田畑を寺社に寄進し、その中から「夏衆」「神人」になる者も出るようになり、寺社は勢力を強めていった。その例として、石清水八幡宮別宮の提訴により国守源則理が流刑にされ、伊勢神宮では御託宣により斎宮寮頭相通夫婦を流刑にし、世俗においても摂関家と並ぶ権力を誇示したことがあげられる。また、摂関家や上層貴族もまた勢力を伸ばそうと荘園(私領)を増加させていった。これに対し、国司たちは荘園の乱立を阻止するために朝廷に荘園停止の法令発布を奏上した。これを受けて朝廷は次々に荘園整理令を発布し、更に農民を荘園に逃げ込まないようにするため租の率を国司の判断に任せず一率にする公田官物率法を制定した。
院政の頃になると僧兵の対立抗争が繰り返され、朝廷はそれを押さえるため武士の力に頼らざるを得えなくなった。しかし、寺社の武力による行動が高まり、寺の鎮守社の神木や神輿を担いで強訴すること(神木動座・神輿動座)が行われた。このことは、寺の力によって神祇が再び力を盛り返してきたように感じられる。
十二世紀に入ると法や秩序は力を失い、様々な事柄の解決に武士の力を頼らなければならなくなった。このことは、確実に武士の勢力が確固たるものとなり、保元平治の乱は平氏の時代を生み出した。更に中世になると頼朝は、「義経、行家探索」という名目の基に、平氏全盛の時に作られた国衙行政における軍事指揮官の守護、荘園・公領の検察力を認められた地頭をより強化し、武士による強力な政権作りを始めた。そのため、僧兵などの武力を持つ寺社は、力を維持できたが、そうでない寺社は次第に弱体化していった。その後、各神社は式に規定された公的祭祀を行っているだけでは運営が困難になり、私的祭祀も積極的に行わざるを得なくなってきた。
伊勢神宮においては、皇祖神が祀ってあり、天皇のみが祭祀の主体者であり私的祭祀は禁止されていた(私幣禁断)のだが、原理原則だけでは維持が困難になり、平安末期には伊勢の下級神職も個人祈願を取り次ぐようになったり、権禰宜は在地領主の私的祈祷に応じるようになった。これが伊勢の御師の始まりであり、祓いを行うとき数取りに用いた祓串を箱に納めて願主に届けたのが御祓大麻であり神宮大麻の起源である。
この頃まで私有財産としての「家」の継承は殆どなかった。貴族階級においては、国家役人には男女問わず公的「家」が設置されていた。この「家」は、役職に支給されるもので資格が無くなれば回収され、継承されるものではなかった。しかし、九世紀後半から十一世紀後半にかけ次第に父子継承が芽生え、強化され、家柄・家格が定着してくる。女性は出仕することが少なくなり夫の家に包摂されるようになる。これは女性社会から男性社会への変化を迎えたことを表す。豪族も在地領主として勢力拡大のために地域に根を下ろして、父子継承を成立させ、一般の人々も「在家」を単位とした新租税が始まっていることから「家」の成立が見えてきた。
中央の動揺と混乱が下々にも反映し、厳しい経済関係が今までの共同体に依存した状態だけでは破綻してしまうような危機感を深めていった。そのために、どの階級も経済的に安定した生活と社会的地位の向上を目指して、夫婦関係・親子関係を強化した「家」を繁栄させる努力をしていたのであろう。また、この「家」の成立と個人祈願の広がりは需要と供給のバランスとその時代の経済推移とに相まっている。
伊勢神宮においては、困難な局面を迎える度に、その時々の情勢を的確に判断をすることで、奉仕する神の神徳を高揚できるか考え努力しており、清浄・正直を旨に祭祀を厳修していたこと、国家的国民的自覚を失わなかったことに見習うべき点が大いにある。ただ、変わるべきでなかった点・変わって良かった点などを第二章の五で考えていきたい。
伊勢神道は、前述の内容に加え、次のことを説いている。外宮祀官度会氏を中心として、神宮の古伝承に両部神道の胎金・太極図説的考え(天照皇大神を胎蔵界の大日如来・光明大梵天王・日天子【火】とし、豊受大神を金剛界の大日如来・尸棄大梵天王・月天子【水】)に基づいて内宮外宮が合体して大日如来の顕現たる伊勢神宮を形成し(二宮一光の理)、一方で五行説によって、外宮を水徳、内宮を火徳に配し、五行相克説に基づけば、水克火であることから外宮の優越を説く。また、豊受大神を天御中主神と同体として、神統譜からも外宮の先行を強調している。また、「三角柏伝記」「中臣祓訓解」では、神を、本覚神、不覚神、始覚神に分類して、本覚神を「本来清浄の理性、常住不変の妙躰」と定義し、伊勢神宮のみがこれに当たるとし、不覚神を実神、始覚神を権神としている。
三 中世における変化 一 鎌倉時代初期
三 中世における変化
一 鎌倉時代初期
源頼朝は、神祇祭祀、寺社の造営修理に特に留意していたことが「頼朝朝務条々」から窺える。幕府は、社寺・神官・僧侶・祭祀・法会のことを司る役職として、寺社奉行を置き、伊勢神宮及び鎌倉周辺の名社には奉幣使がたてられた。特に伊勢神宮に対しては、神宝奉行が副えられ、災害や流行病などのために祈祷を行う御祈奉行、様々な神事を奉行する神事奉行、寺社造営を行うとき臨時に設ける造営奉行などを置き、神祇尊重の姿勢をとっていた。
公家・武家共に財政の苦しい時に経済支援を行うことは非常に難しいことであったと思われるが、少なくともその姿勢は社寺・神祇を第一としていたと推測される。
三 中世における変化 二 末法思想
二 末法思想
平氏が朝廷の中で藤原氏を手本にしたような政権作りを行ったのに対し、源氏は可能な限り朝廷の認可による権力の社会的正当性を認めさせていった。公権力二元化は社会的機能を分担することで成立し、時代は力の均衡状態で揺れ動く状態が中世を通して続いていった。伝統的な共同体維持制度と中国から採り入れた律令制度との二重構造社会に公権力の二元化がのしかかり精神的な救いを求める時代になってきたとも言える。末法辺土思想もこの頃から注目されてきた。
釈迦が正法の時代、像法の時代、末法の時代の時機に応じて説いたという思想が時処機相応思想で、正法の時代とは釈迦の教法が世に行われ、大衆の機根も優れ、修行によって証果を得ることのできる時代、像法の時代とは教法が衰え相似の像法が代わりに現れ、大衆の機根も弱まり、修行をするもその証果を得ることのできない時代、末法の時代とは大衆の機根薄く濁悪な世相になり教法のみがむなしく残る時代と言われている。辺土思想とは、須弥山を中心に離れるにしたがい果報は薄く、機根は劣っているとし、南閻浮周辺の粟散辺土の片州日本は須弥世界の中で最も果報は薄く、機根は劣っている人間の生まれ住む所とし、最澄はこの日本に相応しい教えは法華経であるとした。
ここで天台宗の僧侶である慈円の思想について考えてみる。慈円は藤原忠通の子で、平氏滅亡の際、新帝即位に三種の神器が必須条件であるとした九条兼実の弟である。九条兼実が日記「玉葉」で春日大明神の冥助・天照大神と春日大明神の冥約(幽契)を語っており、その影響を受けて、承久の乱の少し前に「愚管抄」の中で、祖神の冥助・冥約思想を説いている。そのおおよその内容は、正法の時代を神武天皇から成務天皇の間と位置付け、天照大神一神の働きで天皇の親政が行われ、像法の時代を仲哀天皇から後三条天皇の院政開始頃の間と位置づけ、天照大神と春日大明神の二神の冥約により臣下の助けを必要(摂関政治)とする時期とした。次に末法の時代をそれ以降の期間として、前の二神に八幡大菩薩が相談をして、王臣の器量が衰えて武士が現れるも、平氏を滅ぼし、源氏を三代で滅亡させ九条兼実の孫藤原頼経を源氏将軍家の跡継ぎにし、この流れに背けば百王を待たずに天皇家は断絶し、日本も滅びるだろうというものである。このことは、摂政は藤原氏の他に無いことを理とし、動揺する関東武士たちに藤原頼経の将軍継嗣としての正統性を主張している。また後の室町時代の庶民信仰としての三社託宣がある。この信仰は、天照大神を中心として、右に八幡神、左に春日神を配し、神儒仏の融合の立場をとりつつ、正直、清浄、慈悲を強調して、神道教化の展開をはかったものである。
承久の乱の時幕府側には遠江・信濃以東の地頭御家人が応じ、後鳥羽院側には尾張美濃を含む畿内・近国が応じ、結果は幕府側の勝利に終わった。戦後処理として反幕府方(西国御家人)は所領を没収され、東国武士に恩賞として与えられた。本領を離れ西国の神領に移住した者を西遷御家人と言い、神領地では征服者として支配を行っていった。武家政権の確立であろう。引き続き北条泰時が貞永元年(一二三二)に制定した五十一条の御成敗式目の神社祭祀に関する第一条は有名である。『神は、人の敬に依って威を増し、人は神の徳に依って運を添う。然らば則ち恒例の祭祀、陵夷を致さず。如在の礼奠、怠慢せしむるなかれ。関東御分の国々並びに荘園に於いては、地頭神主等、各其の趣を存し、精誠を致すべきなり。兼ねてまた、封有る社に至っては、代々の符に任せ、小破の時は且つ修理を加え、若し、大破に及びては、子細言上すべし。其の左右の随に、其沙汰有るべし。』としている。また、僧浄光の勧進で長谷の地に大仏の建立を始めた。敬虔な神仏・伝統を守る姿勢が窺える。
この頃から、有力武将等の積極的な力添えを得ることにより、大社の分霊を各地に奉斎し始めている。先づ、源頼朝の東国進出により、関東一円に数多くの八幡神社が奉斎されるようになる。そして、鎌倉時代末には北条氏の力添えにより、信州の諏訪信仰が関東を中心に、庶民の信仰を得ていた。また千葉氏や大内氏の管内での妙見社信仰、有力な寺院の寺領荘園の増大による守護神たる日吉社や春日社の奉斎、鎌倉時代以降の神明社創建が行われたのである。そして、これらの神々の信仰は、中世、近世を通じ、現代に至るまで、一般の人々の力強い信仰に支えられている。
また、「平家物語」の「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし」ではないが、時代が下るにつれて、世が衰えるという歴史観に基づいて、一、神武天皇から成務天皇まで、二、仲哀天皇から欽明天皇まで、三、敏達天皇から後一条天皇の御堂の関白まで、四、藤原頼通から鳥羽天皇まで、五、武家の世で源頼朝まで、六、後白河上皇の院政から後鳥羽天皇までに分けて、歴史観の道理を論じている。慈円は他に、和歌論・日本語論を展開している。その内容は、神が仏の垂迹ならば、神が詠い始めた和歌は印度における仏の説いた経と同じであり、印度で梵字で書かれたものを唱え、中国で漢文に翻訳された教典を誦む様に、日本語で和歌を作り神に奉るべきであるというものである。おそらくこの頃から、神前に和歌による歌舞を奉納するようになったのではないだろうか。
この時処機相応思想と末法辺土思想が、新仏教を生み出すとともに、神国思想と結び付き、日本国に本朝意識を発芽させていった。
鎌倉時代には曹洞宗(道元)臨済宗(栄西)浄土宗(法然)浄土真宗(親鸞)時宗(一遍)日蓮宗(日蓮)など多くの仏教が発生した。これらの大半は、発生時に神祇崇拝を否定していても教団の発展のためには本地垂迹を受容していった。その方が大衆に受け容れられ易かったため妥協していったのであろう。
本朝意識の発芽は、元寇によって日本人の国家意識を更に進化させていった。このことは、日本の国体について天照大神の子孫である天皇家の正統性、神の加護、国土の神聖視を再認識させ護持すべきことを求めるに至る。この頃、伊勢神道の中心的な書「神道五部書」が成立している。
白村江の戦い(六六三)から六百年以上も外国との戦争を忘れていた日本において、蒙古との外交を行うことは日本国の存亡をかけた緊張感の日々であったと想像される。十八歳で執権になった北条時宗の朝廷との駆け引きも全くの手探りであったろうし、戦い自体国内戦しか体験しておらず、文永の役では、暴風雨がなければ勝ち目は殆ど無かったであろう。ただ、幕府にとっては、文永の役が終わる直前に御家人以外の本所一円地の住人にも招集指令を発し、この事で支配権が拡張したとも言える。弘安の役の際には石築地や土塁を積んだり準備を整えていたが恐らくこの時も暴風雨がなければ日本は属国になっていたと思われる。この弘安の役の後、得宗家の専制が強まっていった。しかし、それに反発して様々な職種の者が「悪党」化していった。また、戦後処理の失政などで幕府の基盤は崩れ始めた。
三 中世における変化 三 神=心合一
三 神=心合一
権神・実神・本覚神という分類の中で実神こそ神の本質であり仏の利生を示すものであるという主張が現れる。一方で神を仏教における煩悩を生み出す三毒(貪欲・瞋恚・愚癡)の象徴の蛇とし、他方で仏の化身としている。故に神は衆生の煩悩の形象化した姿で衆生の心中に常に内在しており、同時に仏が垂迹した姿とする説である。神が衆生の中に内在するという考え方は、仏教の「仏性」という考え方から出ていると言われている。これは、衆生が成仏可能なのは、本来的に誰にでも仏になるべき因子が内在しているというもので、これが発展して、すべての衆生は本来覚っている存在であり、必要なことはそれを自覚することであるという本覚思想になり、神=心合一となった。それが実神権神の区別の意味を失わせ、仏が神の姿を借りて衆生救済をするという和光同塵へと移っていく。
三 中世における変化 四 和光同塵
四 和光同塵
和光同塵とは、仏が光を和らげて煩悩に満ちた俗世の塵にまみれた姿となって顕現し、衆生を救済するという思想で、日本では神の性格について説く際によく用いられた。果報が薄く、機根の劣っている辺土である日本の人間を救うために時処機相応の和光の方便として現れたのが神であるということであろう。更に進めて、仏が人として生前に苦労をし、死後神として祀られるという信仰をも形成していった。「愚管抄」の中の「観音が和光同塵して菅原道真になり、憤死後、天神として祀られる。」といったようなものである。
弘安六年(一二八三)に成立した無住一円の『沙石集』には、「本地垂迹その意同じけれども、機にのぞむ利益、暫く勝劣あるべし。わが国の利益は垂迹のおもて猶すぐれて御坐すをや。…中略…青き事は藍よりいでて藍よりも青きがごとく、尊き事は仏よりいでて仏よりもたふときは、ただ和光神明の慈悲利益の色なるをや。」とあり、一般の民衆にとって、神と仏のどちらが本であろうと従であろうとあまり関わりなく、自分達に直接関り、利益を与えてくれる神仏に興味を持つと同時に、それを本当の崇敬の対象として受け止めていたと言えよう。
室町時代に入ると、仏が神の姿を借りて衆生救済に赴くという「本地物」と呼ばれる作品群(『神道集』、『群書類従』や『続群書類従』に収載されている諸社の縁起)が多く語られている。その縁起に重点を置いたのが縁起神道である。縁起神道は、各神社の御祭神の神徳の高揚をはかろうとしたものである。伊勢の御師や熊野比丘尼をはじめ、歩き巫女、勧進聖、先達、神人、説経聖、修験者、絵解法師などと称される回国遊行の宗教者や芸能者が、様々な縁起を語り歩き、あるいは、絵を見せながら縁起を語り、一般民衆の中に唱導していった。その縁起の例として次のものを揚げておく。
『神道集』収載の「三島大明神の事」には、池溝を掘り、橋をかけ、渡し舟や湯屋を設けて、民衆の労をねぎらうとともに、生活を助ける神が語られ、「熊野本地」では、印度に於いて十一面観音が和光同塵した美女は、国王の千人の妃の一人となって殊の外寵愛を受けて身ごもったので九百九十九人の妃に妬まれて山中で首を切られた。しかし、首無き母は産まれた子に乳をふくませ育て、その子が大きくなったとき蘇生してその子と共に日本に飛来し、熊野山中に鎮まったとしている。
律令時代に於いて、神職の務めは、極めて厳格な斎戒のもとに祭祀を奉仕することが第一であり、第二に神域を清浄に保ち、施設の管理を正しく行うことであった。しかし、世の中が不安定になっていったことと家の発達につれて共同体的社会を基盤にしていた神社は、より広い氏子、崇敬者等を獲得するため、神職や御師の活躍が要求されてきた。氏族や共同体の守護神である神々に対して、神と民衆を結びつける必要が生じた。如何なる形で一般大衆に根を下ろすことが出来るかが命題であったと言えよう。また、それはあくまで大衆の捉え方であり上から押しつけることの出来るものではなかったであろう。次に、根を下ろしていった一形態として、宮座について述べる。
三 中世における変化 五 宮座
五 宮座
氏族(血縁的関係)の祖先神であった氏神は、水稲農業を背景にムラという共同体(地縁的関係)による生活を連綿と続けているうちに、産土の神・鎮守の神と合一化してきた。故に地域に即した神であっても氏神であり、地縁的集団であっても氏子集団と呼ばれるようになったのである。古くは、政治、財物、生産等々何事によらず氏神を中心に行われ強固な共同体であった。それは、鎌倉時代以降、その土地に新転入してきた者たちよりも特別な世襲的地位を持つようになり、神社祭祀組織の一形態として近畿地方を中心に全国に分布する。それは「宮座」と呼ばれ氏子全体を代表して氏神に奉仕すると共に、氏子全体に対する神の代行者としての地位を占めていった。村落の神社に於て見られる宮座の名称は、宮座の他に、頭屋、祷屋、塔屋などと書く他、宮講、氏神講などと云われ、土地によって違いがある。
この祭祀組織は当屋制であり、一年交代の当番制をとるものである。宮座の座員の中から、年毎に頭屋とか頭人を選び出して祭祀を主宰せしむる場合が多い。頭屋・頭人は、厳しい物忌の生活を行い祭祀の厳修につとめ、祭のあと頭屋渡しの儀式が行われることにより、次の祭りの頭屋が決まり、神饌米も、頭人や座員が耕作していた。氏子の神社祭祀や維持への積極的な参加が見られるようになり、こういった組織が全国的に普及して、村祭の共同体が広く強く組織化され、今日に於ける神社と氏子との密接な関係の基盤が築かれていった。
昨今の激しい社会変化により、信教の自由も伴い、氏子意識が薄れていく中、地方における過疎も加味され宮座の維持には大きな努力が必要とされている。僅か五十年そこそこの時代の変化で意識も形態も失うことがあってはならないと思う反面、日本のアイデンティティーは失われることなく、本来あるべき姿(正統)は何時の時代か復興されるとも思う。正統の中でも、天皇の正統や国体やリーダーの在り方について深く考えたのが北畠親房であろう。
三 中世における変化 六 正統
六 正統
「神皇正統記」は北畠親房によって皇位が神代からの正しい皇統、また道理によって受け伝えられてきたことを明らかにしようとするもので、北畠親房の国体論を表す一方で後村上天皇の参考に資する目的で著されている。度会家行と親交の深かった親房は、伊勢神道を基盤に(特に「類聚神祇本源」を参考に)して、「元元集」を表し、伊勢神道の「正直」という徳目を中心に神道説を述べ、同時期の「二十一社記」では神明奉仕の心得として「身正しく心明なれば我身即神也…」と述べている。南北朝時代は、後嵯峨天皇が二人の皇子(後深草天皇・亀山天皇)に対する愛情の違いで正統を逸脱したことから生じたといえる。後深草上皇に同情した幕府が間に入り、後深草上皇の子を亀山天皇の養子とし、次の天皇とする案を示し、両者これに合意した。そして、後深草上皇の系統を持明院統、亀山天皇の系統を大覚寺統と呼び、ほぼ交互に皇位を譲り合っていたが、誰にでも想像できるように問題が生じ、後醍醐天皇の頃が互いのフラストレーションを解消すべき時期にきていた様に思われる。後醍醐天皇は朱子学(宋学)に力を注ぎ正統意識と大義名分の依代にしていた。朱子学に基づくものなのか朱子学の理念を利用したのかは定かではないものの、天皇の地位が幕府によって決められることを認めず、ひいては幕府に従う必要はないとし、更に自分が正統であるから持明院統を否定する立場と信念を持っていた。また後醍醐天皇は、密教に傾倒し、「聖天供」を自ら行うほどで、倒幕の祈祷を別の祈願の名を借りて行っていた。加えて、比叡山や東大寺興福寺などを引き込むために大日如来修復など様々な画策を行っていた。寺社の力を後醍醐天皇が重く見ていた表れであろう。親房自体は、検非違使庁の別当に任ぜられ、正中の変・元弘の変の後長子顕家は後陸奥守に任ぜられた。元弘の変の後、北条の残党によって各地で反乱が起き、中先代の乱で北条時行が鎌倉を奪還した。足利尊氏は独断で鎌倉を奪回し、天皇の帰京命令にも従わなかった為に、天皇は新田義貞に尊氏征伐をさせた。尊氏は、義貞勢を破ったが、北畠顕家勢に追われて九州に逃げた。尊氏が志気を上げるために考えたのが「錦の御旗」である。備後の鞆に着いたとき醍醐寺三宝院賢俊から持明院統の光厳上皇の院宣を受けた。これにより尊氏勢は朝敵から正統になり、楠木勢は破れ、比叡山で抵抗を続けていた後醍醐天皇は光明天皇に三種神器を授けた。暦応元年・延元三年(一三三八)顕家・義貞が相次いで戦死し、翌年、後醍醐天皇が崩御された。親房はその訃報を常陸国の筑波山南禄の小田城で聞き、自らが南朝を支えなければならない覚悟をする。尊氏と弟直義は後醍醐天皇の怨霊を恐れ夢窓疎石の勧めに従い禅宗の天龍寺を建立した。親房は関城に移り結城一族に協力を求めたが、逆に陥落させられ吉野に戻ることになった。尊氏と直義の兄弟対決が表面化し親房は偽りの和議で直義の帰順を許し、兄弟対決となり尊氏勢は総崩れとなり直義との和議となったが、執事高兄弟が戦死し、天下三分の形成(京に尊氏・義詮、吉野に親房、越前に直義)になった。しかし、尊氏は直義を討つための大義名分を得るために親房と和睦し、直義追討の綸旨と「公家のことは南朝方の沙汰、武家のことは尊氏方の管領」との勅許を受け、北朝を見捨て、元号を正平に統一(正平一統)した。正平七年(一三五二)相模早河尻で尊氏が勝利し、直義と和睦したが間もなく直義は毒殺された。正平九年(一三五四)親房も世を去った。その頃(一三五五)南朝方は各地で蜂起し、南朝は尊氏の実子で直義の養子直冬を大将として京・鎌倉を制圧した。尊氏・義詮は勢力を立て直し奪還したが、京に天皇はなく、光厳院の第三皇子弥仁を擁立して、後光厳天皇とした。しかし、三種の神器が足らない践祚であったために権威は低下していった。八幡に落ちた直冬は更に戦うか否かに群議で決せず八幡の託宣を求めたが「垂乳根の親を護る神がこの願いに応えることは出来ない」とのことで直冬勢は分解してしまった。尊氏の死(一三五八)後、義詮は九州以外のほぼ全域を勢力圏とし、幕府は安定し始めた。
この時代で見るべきものは、第一に、承久の変の時上皇等が流刑された状況と違い、後醍醐天皇が何度破れても立ち上がり信念を貫き通した姿勢である。多くの人は世間体や人の目を気にしてその場を取り繕い済ますであろうが、危機を迎えた時代こそその姿勢を見倣わなければならない。第二には、リーダーに現実的な力が無くても、「三種神器」・「錦の御旗(綸旨・院宣)」・「託宣」と言った「正統」を手に入れることにより実力以上の力を示すことが出来たことである。今の時代でも、伝統の中にある力を信じることが大切である。第三には、自分で望みを達成することが出来なくても、全身全霊をかけて努力をしていれば、後に続く誰かが成し遂げてくれるだろうという楠木正成の「七生報国」的な考え方である。自分一代で事を成就すると考えるのではなく長いスパンの上に立った行動が大切であることを示している。法治社会では法こそが正統であるが時代の歯車が少し歪めば法が絶対ではない。そうなった時に神代から繋がる正統が復活しなければならなくなるであろう。このような生き方・考え方を日々に生かしたいものである。
その後、義満の時代になると武士の棟梁として武力で山名氏、大内氏を征伐したが、宗教を原理にしていた勢力には別の方法を採った。伊勢の北畠親能に対しては、伊勢神宮に参拝し、莫大な寄付を行った。大和では、春日大社・東大寺・興福寺に、比叡山では、延暦寺・日吉神社に、紀州では、高野山・粉河寺などに参拝巡礼し、同じく莫大な寄付をやってのけた。公家たちに対してはアメと鞭を使い分けることを毅然とやってのけた。このことで南朝方は義満に敬服し、幕府は安泰な状態になった。日本において、力によって相手を打ちのめすだけでは、安定を得ることが出来ない、相手の弱みを利用したり、相手の欲しているものを相手が感服するぐらいに与えることで初めてリーダーになれるのではないだろうか。
三 中世における変化 七 吉田神道(元本宗源神道)
七 吉田神道(元本宗源神道)
室町後期、吉田兼倶によって大成されたが、これは兼倶以前の吉田家の家学としての古典研究や慈遍等の業績の積み上げである。吉田家は卜部氏の末裔で亀卜を司る家柄であり、吉田神社の世襲神主であり、卜部兼方、卜部兼好、慈遍などの学者が出ている。吉田神社は、平安中期に藤原氏が春日大社の氏神を京都の神楽岡西麓の吉田山に勧請したのが始まりであり繁栄したが、兼倶の頃になるとすっかり荒廃していた(吉田神社だけでなく応仁の乱などの動乱期に多くの神社は衰退し、重要な国家的祭祀も中絶していった。)。兼倶の宗教・政治の卓越した才能(戦火で外宮が焼け御神体紛失の噂が流れた時、戦乱を嫌って吉田神社に神器と共に移られたので調査して貰いたいと朝廷に願ったことなど)により一挙に総本山的地位の基礎を築きあげた。更に、兼倶は大元尊神(国常立尊=天御中主神)を祀るために大元宮を建てその周囲に日本国中の神々を祀り、神祇伯を世襲してきた白川家に対抗して、「神祇官領長上」を僭称し、それを幕府に承認させたのであった。
吉田家は中世末期から宗源宣旨・狩衣許状・継目許状(神道裁許状)などを出して支配力を拡大していたが、家元的地位は寛文五年(一六六五)の「諸社禰宜神主法度」第三条で吉田家の許可による装束の着用との明記により、確立し、幕末まで続く。
思想面から見ていくと、神とはすべてを超越した存在であり、神は霊的存在にして万物(善悪、邪正を問わず)に宿り、物心すべての存在は神と共にあるとし、すべての現象は神明によるものと考え、その根元が神道であるとしている。また、辺土思想や本地垂迹説に対抗すべく、根本枝葉花実説(日本から種子を生じ、中国で枝葉を現し、印度にて花実を開く。仏教は万法の花実で、儒教は万法の枝葉で、神道は万法の根元であるとし、仏教も儒教も神道から分かれたもので、神道が根本であることを明らかにするために日本にやって来たものであるとする説)により神主仏従論を展開している。更に、元本宗源神道は顕露教と穏幽教に大別され、顕露教とは先代旧事本記・古事記・日本書紀の研究や各種祭祀を延喜式祝詞を持って行うもので、穏幽教とは顕露教に無い神秘的な奥義で万宗・諸源の両壇を設けて、神道三元三妙三行という加持を行った。
三 中世における変化 八 戦国時代から徳川幕府へ(在地領主制からお国替えへ)
八 戦国時代から徳川幕府へ(在地領主制からお国替えへ)
応仁の乱などの動乱期に多くの神社は衰退していった。神宮・朝廷すら例外ではなかった。寛正五年(一四六四)に即位した後土御門天皇の頃からおよそ四代の間、式年遷宮は百二十四年、神嘗祭例幣が百八十年、大嘗祭に至っては二百二十一年途絶えてしまっている。この事は、式年遷宮を二十年ごとに行う理由として言われている技術等の継承・伝統の護持などの意味を失わせてしまう(天正十三年(一五八五)の復興から長い時間を掛けて本来の姿を求めて諸先輩方が努力し、現在に至っているが、その間本来の姿でなくても遷宮と認めてきているし、途絶えた間、儲殿や仮殿で凌いでおり、それで済むのであればそれで良いと考える者も少なくないだろう。また、完全な継承が出来ていないのであれば、一般の神社が、茅葺きや柿葺きや檜皮葺の屋根を銅板に張り替えざるを得ない状況になっているのと同様に神宮も銅板ではなぜだめなのかとの主張も出て来るであろう。どうしても二十年毎でなければならない理由をもっと説得力のあるものにしていかなければならないのではないか。尚、技術や伝統行事所作等に関してはデジタル機器で保存が可能である。)。また、大嘗祭を行わなくても正統な天皇として認められていたわけで、大嘗祭の存在意義についても疑義が生じる。この時代が現在の教学を更に複雑なものにしている。
ただ、在地領主はそれぞれの氏神を始め地縁の神社を崇拝し、保護しようとしていた。そのおかげで持ち直すことの出来た神社も多々あったようである。しかし、慶長五年(一六○○)の関ケ原の戦いによって、旧来の在地領主の領地も収公となった。新しく入国した領主の有り様は様々で広島を例に見ると、安芸国においては福島家・浅野家であるが、どちらも村の氏神社との関係を持とうとしなかった。それどころか、一部の神社を除いて(広島東照宮と広島三の丸に稲荷神社を建立し、宮島の厳島神社と豊田郡豊町の宇津神社を保護し、江戸末期には浅野氏の始祖を祀る饒津神社を建立したのみ)社領も安堵せず、これにより中世の在地領主たちが護持してきた氏神社は、大檀那として造営、修理する者を失い、経済基盤が崩れていった。氏神社の祭祀経費も全く無くなり、十七世紀の神社の大荒廃期を迎えることになった。
これとは逆に、備後国では福島氏改易後、水野氏の領国となり、浅野氏とは異なって十七世紀造営の本殿がかなり残っており、神社の造営をかなり援助したことが分かる。吉備津神社は中世末期にはかなり荒廃し、福島正則時代には大鳥居も奪取されて広島城大手門の門柱になるような状況であったが、水野氏によって完全な復興を見た。水野氏は、鞆ノ浦の祇園社(現、沼名前神社)や城下の福山八幡宮も復興しており、水野氏によって復興がなされた神社は数多い。
このように領主により神社の盛衰はかなり異なるが、徳川政権が安定してくると、全体としては、経済状況も良くなり一般の人々の暮らしと共に回復の道を歩むこととなった。藩による護持と一般の人々による維持に分化していった時期と言えるであろう。一般の人々による維持は現代の神社の有り様に似通っている。